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トラウマについて~生きづらさから解放されて自分を愛する力を取り戻すために~(前編)

2022年12月28日

今回からは「トラウマ」について書いていきたいと思います。

トラウマのメカニズムについての理解を通じて、なぜトラウマの解消が心身の不調や生きづらさからの解放につながるのかを理解していきたいと思います。

シリーズ1回目の今回は、トラウマがどのようにできるのか、そしてそのトラウマがどうして残り続けるのかについて見ていきたいと思います。

トラウマとは

トラウマとは、心に傷を残すようなつらい体験によって、その経験が、時間とともに単なる過去のひとつの記憶として消えずに、「トラウマ記憶」として残り続けることを言います。危険が去っても、トラウマ体験時に感じた思いや感情が、身体の中にとどまって、元に戻らない状態のことを指します。

そして、このトラウマによって、心が本来もつ機能や役割を果たせなくなることはよく知られているかと思います。この状態は、心身に様々な影響を及ぼします。不安障害や、パニック障害、うつ、依存症、摂食障害などの症状となって出たり、人間関係を構築していくことに難しさを感じたりと、生きづらさと深く関係するのです。

 

心に傷を残すつらい体験とは

「心に傷を残す辛い体験」とは、どのようなものでしょうか?

それらは色々に分類できますが、一つの例としては、一過性の非日常的な体験と、継続的にくりかえされる体験に分けることができます。以下はその例です。

 

<一過性の非日常的な体験の例>
・事故に遭った・事件に巻き込まれた
・自然災害、火災を経験した
・リストラに遭った
・暴力的な犯罪に遭った
・レイプなど望まない性行為を強いられた
・親しい人、大切な存在が亡くなった
・自分は経験していないが、他者がこれらを経験しているのを目撃した
・手術や何等かの医療処置において怖い思いをした

<継続的に繰り返された体験の例>

・暴言・暴力など、精神的・肉体的な虐待に遭っていた

・親や養育者から適切で十分なケアを与えられずニグレクトの状態にあった

・性的な虐待に遭っていた

・両親の仲が悪く、親同志の喧嘩、暴力を目撃していた

・長期にわたるいじめに遭った

 

危険な状況におかれたときに起こる生理的反応 3つのFパターン

私たちは、危険と感じたとき、命の脅威を感じるような状況に遭遇した際に、私たちの心と体はどのような反応を起こすのでしょうか?

 

安全が脅かされると感じた時は、私たちはとっさに反応します。「本当に危険なものなのかどうか」といった判断をする間もなく、危険だと察知すると、脅威から命を守るためのプログラムとして、防衛反応が作動するのです。この防衛反応には、3つのパターンがあり、その頭文字をとって、「3つのF」と言われます。いずれも危険な状況から命を守るための大切な生理的反応です。

ちなみに、この時、生命の維持を司る脳幹といった脳の古い部分が使われています。

 

<3つのF>

①Fight 闘う:危険な状況に立ち向かって、その状況を打破しようとする反応。その状況、相手に対して好戦的、攻撃的になったりして闘争モードとなる。

使われる自律神経の回路:交感神経

 

②Flight 逃げる:危険な状況から命を守るために取る反応。安全でないと判断される状況から逃げる、回避する。苦手な状況、人を避けるというのもこの反応です。

使われる自律神経の回路:交感神経

 

③Freeze 凍りつく:闘うことも逃げることもできないときに用いられる反応。あまりの恐怖に身がすくんだり、立ち尽くして動けなくなったりしている状態はこの反応によるものです。動物は、捕獲者に対して闘うことも逃げることもできないときは死んだふり(仮死状態)をして、捕獲者のが興味を失わせて、命を守るという戦略をとったりします。私たちが無表情になったり、ショックな出来事についてよく覚えていなかったり、記憶が抜け落ちるというのは、この反応によるものです。

使われる自律神経の回路:副交感神経の2つの回路のうち、背側迷走神経

自律神経についての記事

 

「過去のひとつの記憶」とならずに「トラウマ記憶」としてとどまり続けるメカニズム(理由)

それでは、単なるつらい経験ではなく、「トラウマ体験」になるのはどういう要素が関係をしているのでしょうか?

 

要素として、

・体験そのものの大きさ(よくある体験なのか、生命を脅かす体験なのか)

・体験のしかた(誰も気づいてくれず、誰にも助けてもらえない、繰り返しつらい出来事を体験するなど)

が挙げられます。

 

「トラウマ体験」となる4つの要素UDINからの考察

例えば、ドイツ新医学の分野では、以下の4つの要素が重なると「トラウマ体験」である、と言うのですが、これはまさに上記の体験の大きさ、体験のしかたという要素ともマッチするなと思います。

 

4つの要素

U:予期していなかった(Unexpected)

D:劇的でショックが大きかった(Dramatic)

I:一人で対処するしかなかった(Isolated)

N:対処する術、方法がなかった(No Strategy)

 

これらの4つを、例えば、地震などの自然災害や、事故などを例にとると、これらの4つがわかりやすいかと思います。これらは突然起きます。だからこそ、そのショックは大きい。たとえ周りに人がいたとしても、気が動転していたり、パニック状態になっていると、助けを求めることも難しくなり、目の前の事態にどうすることもできないと感じる、といった風にです。

 

トラウマレベルに影響を及ぼす3つの因子

またさらに「トラウマ体験」の傷の深さに影響を及ぼす因子として以下の3つがあると言われます。

 

①一つは、トラウマ体験にさらされた時間の長さです。それが、一回もしくは短期間だったのか、長期間にわたったあるいは、日常的に繰り返されたのか。

 

②もう一つは、大人になって経験したものなのか、心も脳や神経系も含めて発達の途中である子どもの頃に体験したものなのか。

 

③最後の一つは、自分と相手との間にどれぐらいの関係性の近さがあったのか、です。
例えば、日常生活の中で、親や養育者との関係が不安定だったり、学校でいじめにあっていっていたなどは、自分と近いい関係がある人との間で起きた問題として捉えることができ、それがトラウマのレベルに影響を与えるということです。

 

凍らせたままになる感情―感覚―思い

先に、防衛反応の3Fについて述べましたが、そのうちの一つであるFreeze反応は、危険で恐ろしい経験に対して命を守るという意味では大切な反応なのですが、同時にその時に感じた感情―感覚―思いを切り離して閉じ込めることもします。解離と言ったりします。その経験とよく覚えていない、記憶が抜け落ちているといったことがあるのはこのためです。生命の維持のために、その時のショックを感じないようにしているわけです。

ちなみに自然界の野生動物は、死んだふりをしたことによって、捕獲者が興味を失って退散し、安全を取り戻すと、ゆっくり起き上がって、深い呼吸をし、体を震わせて体内に閉じ込めていたエネルギーや恐怖、緊張を解放して通常の状態にリセットするということをします。そうすることで、トラウマ体験として残らないのです。

 

しかしながら私たち人間は、野生動物のように、体内にためたエネルギーや感情―感覚―思いなどを自然に解放することができません。

その体験で感じたこと(光景、におい、光など五感で感じ取っていたことも含みます)をそのまま閉じ込め、凍らせることになるのです。

さらに、そこに体験の大きさや体験のしかたといった要素も加わった場合、閉じ込めるものがどれだけ大きいものになるか、想像に難くないかと思います。

 

レジリエンスを低める幼少期の体験

前述のトラウマレベルに影響を与える3つの因子(時間の長さ、時期、関係性の近さ)は、私たちの、ストレスや逆境に対応したり、そこから回復する力(レジリエンス)にも影響を及ぼします。そして、その力が未発達であることによって、トラウマ体験がトラウマ記憶として残ることにもつながっていきます。

対応したり、回復したりできる力は、子ども時代に親や養育者と安定した関係があったり、守られている、ケアされているという感覚が十分に持てていると健全に育まれていきます。

 

そして、それは、その子の世界と自分自身を見る土台にもなっていきます。ですので、この土台が不安定であったり、脆弱であると、成長する中で経験することが、傷(トラウマ記憶)として残りやすくなってしまう要因の一つとなります。

 

 

このように見てくると、様々な要素や因子が影響したり、組み合わさったりすることで、体験がトラウマ記憶としてとどまることを理解できるのではないでしょうか。

 

 

次回は、トラウマによる凍らせたままのものから見える世界と、トラウマからの回復について書いていきたいと思います。

 

 


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人間関係のしんどさを解決する健全な境界線③~自分を大切にしながら相手も大切にできる~

2022年11月3日

今回はこれまでシリーズで書いてきた境界線についての最後の回です。

 

今回も前回と同様に、個別のケースを出しながら、越えるとき、越えられるときに、心の中でどのようなことが起きているのかを見ていきたいと思います。

また最後に、境界線を越えない、越えられるのを許さないために私たちはどうしたらいいのかについても触れていきたいと思います。

 

今回は、相手に言ったり、したりしたことが良かったのか? と気になったり、自分のせいだと思ってしまう時を例に、その時の心の状態について心の仕組みから解説していきます。

 

自分の言ったこと、行ったことを相手がどう考えるか不安に思ってしまう

 

メールやラインを送って、返信がこないことに不安になったことは誰しもあるのではないかと思います。また、自分の発言やふるまいについて、後になって「あれはあの場にふさわしかっただろうか?」とか、「相手は気を悪くしているのではないか?」「相手を傷つけていないだろうか?」と疑心暗鬼になったり、いろいろ詮索してしまうという経験もあるのではないかと思います。

こうしたケースも境界線の観点から見ることができます。

相手がどのタイミングで返信をするのか、相手がこちらの言動についてどのような解釈を持ったり、反応をしたりするのかは基本的に相手の領域のことであり、相手が決めることです。しかし、それらをこちらがコントロールしたいとなってしまうと、境界線を越えることになり、不安や猜疑心などに苦しむこととなってしまいます。

 

例えば、これは私の経験談ですが、ふいに口をついて出た言葉が相手を傷つけてしまったのではないかと思い悩む時があるのですが(それはたいがい杞憂に終わるのですが)、これは、自分が他者の言葉で傷ついてきたという経験があるからなのです。自分が傷ついたことで自分を力ない存在と見てしまい、それを相手に投影するので、相手を自分と同じように力ない傷つきやすい存在として見てしまうのです。自分が気になって考えを巡らせている時、その考えやイメージの中にいる相手は、決まって弱い力ない存在と見えているはずです。ですから、誰かを傷つけないように言葉に気を付けようなどという風な、自分を監視するという動きにもなってしまうのです。

 

このケースで私が、相手がどのような反応をするのか、どのような解釈をもつのかについて、「相手の領域で起きることなので、相手に任せるよ」「それは100%相手の自由だ」と健全な境界線を引けるようになるには、どうしたらよいのでしょうか。

それは、私自身の「他者の言葉で傷ついてきた」という経験を癒していくことです。その時に感じた感情(悲しみや、怒り、恐怖感などなど)や感覚、思いがありますから、それらに向き合って感情解放をしていくのです。なぜなら、これらの感情や感覚、思いが、自分のことを力ない存在と思わせてしまうのですから。感情や感覚、思いが解放されていくと、傷ついていた私から、自分の中に力を感じられる私に変わっていきます。その結果、相手のことも弱い力ない人とは見えなくなりますので、自然と境界線も健全に引けるようになり、無駄に思い悩んだり、自分の言動を見張ることもしなくてよくなるわけです。

 

自分のせいだと思ってしまう

また、なんでも「自分のせいだ」と自分が責任を負ってしまって苦しくなっているというパターンもありますね。こちらが悪気や傷つけてやろうという意図など全くない言動に対して、相手から「傷ついた」と言われたり、責められたりしたときに、それは「私のせいだ」と自分が相手の感情の責任を引き受けてしまうケースです。

 

相手が「傷ついた!」と怒っていたとしても、その感情の責任をとれるのは(感情のケアができるのは)、基本的に相手本人です。なぜなら、怒りなどの反応を生み出すものがその人の中にあるからですね。例えば、相手がトラウマなどでの傷がある、あるいは、たまたまその時何らかの事情で不安や焦りなどがあったのかもしれません。そして、そのケアをしたり、向き合ったりすることができるのは、その人です。

他の人がするべき仕事の責任を負ってしまうと、今度は自分が窮屈になったり、不満がたまってきて、関係そのものがぎくしゃくし始めて、難しいものとなってしまうことでしょう。

 

このように誰の領域で起きていることなのか、その責任をとれるのは誰なのかを見極めることはとても大切になってきます。どうしても「自分のせいなのではないか」と境界線があいまいになって引き受けそうになってしまう場合は、今度は、健全な線引きを難しくさせるものは何なのか、自分を力なくさせるものは何なのかを自分の中に探っていくとよいですね。

 

まとめ~健全な境界線をひけるようになるためには~

前回、今回といくつかの個別のケースを挙げながら、越えるとき、越えられるときに、心の中でどのようなことが起きているのかを見てきました。

 

境界線は目に見えるものではないですし、断れば境界線を引けましたとか、何かの行動をしたら引けていませんとかといったようなものではありません。つまり「行動」ではなく、自分の中で、精神的な軸や自立があるかどうか、に依るのです。

 

自立ができにくくなるのは、「自分には力がないのだ」と信じているからで、それはなんらかのトラウマや傷つきの体験が原因となっています。ですから、健全な境界線を引くためには、そのトラウマや傷つきの体験を癒して、低まってしまった自己価値を回復していくことが大切です。(具体的には、これまでの記事でも書いていますが、経験は、感情―感覚―思いで構成されていますから、それらの解放をしていきます。前述の「他者の言葉で傷ついてきた」という私のケースも参考になるかと思います。)

 

 

今シリーズ最初の回でトマス・ゴードン博士の

「健全な境界線の境界は、通り抜けができるぐらい浸透性があり、危険物は閉め出しておける程度の強度がある」

という言葉を引用しました。

自分に力を取り戻していくことで、このような境界を、状況、状態ごとに柔軟に設けることができるようになります。そしてこの境界は、愛や信頼がベースの境界なので、自分も尊重しますし、相手も同じように大切にすることができます。このような精神的に自立した者どうしが、お互いに関わり合い、刺激をしあっていける関係を築いていきたいですね。

 

 


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人間関係のしんどさを解決する健全な境界線②~自分を大切にしながら相手も大切にできる~

2022年10月23日

今回は前回からの続きの境界線についてです。

前回は、私たちが自分の中で起きていることに責任をもてるかという精神的な自立が、健全な境界線を引けることに関わっていることや、それを難しくさせる理由として、自我の性質と人生の中での傷つきについて解説してきました。

 

今回と次回は、いくつかの個別のケースを出しながら、越えるとき、越えられるときに、心の中でどのようなことが起きているのかを見ていきたいと思います。

 

また、次回の最後には、境界線を越えない、越えられるのを許さないために私たちはどうしたらいいのかについても触れていきたいと思います。

 

今回は、DVなど自分を傷つける人と関係を切ることができないケースと、親の過干渉で自分で決めることができなくなった子どものケースを題材に、健全な境界線を引きにくくさせる理由を心の仕組みから解説していきたいと思います。

 

自分を傷つける(DVなど、言葉や身体的な暴力、虐待)人と関係を切れない

親子関係や夫婦関係において、傷つけられているのにその関係を断ち切れず、その関係の中にとどまり続け苦しむというケースについてです。

 

この時、傷つける側、そして傷つけられる側の心の中ではどのようなことが起きているのでしょうか?

 

傷つけたいという衝動の奥にあるのは「自分には力がない」という思い

最初に、傷つける側を見ていきましょう。

 

相手を傷つける態度として現れる形の例として、

 

・相手に自分の思いどおりの行動をさせる
・自分と違う考え方、意見などを持つことを許さない
・相手が離れようとすると、離れていかないように、相手の怖れを刺激して(脅しなどはその例)相手を支配下に置き続けようとする

 

などがあります。

 

また、傷つける側は、「お前が悪い」「お前のせいだ」「お前がわかっていない」と口汚くののしったり、攻撃をし、相手の領域を越えてきます。

 

私たちが、相手を攻撃する時というのは、私たちの中に何らかの感情、感覚、思いが抑圧されている時です。そして、それらを刺激されるような事態が起きると、自分を守るために(抑圧している感情、感覚、思いに向き合わないために)、攻撃という形を取るのです。

例えば、自己肯定感の低い夫が、ある朝、Yシャツにアイロンがかかっていないことを見て烈火のごとく怒ったとします。これは、もともと自分の中にあって触れられたくない「自分の願いは受け止めてもらえない」といった傷があるからなのですが、それに向き合おうとせずに、反対にそれを刺激した犯人を外に探して(投影)、「自分をないがしろにしているからだろ!お前が悪い!」と問題のすり替え(防衛・攻撃)をしているのです。

 

トラウマや傷つきによって自己価値が低まっていると、「自分には力がない」というものがベースになりますから、自分の中にある様々な怖れや不安、不全感、欠如感といったものに向き合うなど、怖すぎてできないものです。ですから常にすり替えをして、誰かのせいにする必要があったり、相手や周りを服従させたりすることによって、自分の不全感、欠乏感を埋めるということをしなければいけなくなります。これは、自分の中で起きていることへの責任を持つことを放棄しているのです。そのことに心の深いところではうっすらと気づいているのですが、無力な自分ゆえに、それをどうしたらいいのかわからないので、誰かや何かのせいにしないとやっていけないのです。

 

このように、私たちの心はいつも抑圧→投影→防衛・攻撃という仕組みで動きます。

それゆえに、傷つける側は、いつも攻撃の対象を必要とするのです。

 

傷つけられる側の中にもある「自分には力がない」という思い

では、一方の傷つけられる側の心理はどうなっているのでしょうか?

傷つけられる側の人たちがよく思っていることは、「誰も助けてなんかくれない」ということです。自分のことを「無力で小さな自分」と見てしまうので、外に助けを求めるという発想自体がない(という世界観を持ちやすい)のです。ゆえに、たちまち境界線を越えられることを許してしまいます。

さらにひどいときには、越えられていても、むしろ「私が悪いからそうされて当然」、「私は尊重される資格がないのだから」「私は悪い人間だから」と自己卑下をベースにして相手の行為を正当化したり、「相手の役に立てている」「私がいないとあの人は生きていけないから」と自身の不全感を埋めるために、無意識にこの関係を利用したりもします。

 

このように、傷つけられる側にも、傷つける側と同じように、怖れ、無力感、不全感、欠如感があるのです。

自分に価値があると思っている人は、こちらに非がないのに暴言を吐かれたり、暴力を振るわれたりしたならば、それは相手の問題だ、相手がおかしいと、きちんと切り分けができて、自分の領域の中に留まることができます。

 

この傷つける・傷つけられる関係は、一見、傷つける側が力を持っているような関係に見えますが、いずれも、「自分には力がない」という思いをベースに惹かれ合っている関係です。お互いに精神的に自立しているという感覚が薄いため、共依存となり、どちらかがこの関係から抜け出すというのは、なかなか難しいものになってしまいます。ですから、はたから見て離れた方がいいと思える関係であっても、本人たちはその関係にとどまり続けてしまうのです。

 

親の過干渉で自分で決められなくなった子ども

最近は、過保護、過干渉の親のことを「ヘリコプターペアレント」と呼んだりします。子どもがつらい思いをしたり、不安を感じたりしないようにと、先回りをして、子どもが解決すべき問題、子どもが考えて判断したり、決断したりする事柄を全て引き受けようとするのです。こうした親子関係では、親が境界線を越え、子どもが越えられる立場となります。

 

「あなたのためを思って」「あなたのためだから」「私の言うことを聞いておけばいいのよ」という言葉は、過保護や過干渉な境界線を越えている親からよく聞かれる言葉ではないかと思います。

 

親子ですから、愛情で結ばれている関係ではありますが、実はこれは、親自身の中にある「他人の目にいい親と映っているだろうか」「子どもの能力を伸ばせない親と思われていないか」「親失格と思われないか」といった子育てへの不安や自信のなさを、子どもを使って解消しているのです。子どもが考えたり、判断したり、決定したりという精神的な成長の機会や可能性を奪うとしたならば、一見愛情をベースにした言葉がけや行動に見えたとしても、それは、境界線を越えた対応と言えるでしょう。

 

一方で、過保護や過干渉な対応を受けて育った、つまり境界線を越えられて育った子どもはどんな風になるのでしょうか? 一つケースを見ていきましょう。

 

Aさんは、30代前半の女性ですが、小さい頃から習い事などでは何を習うのか、どこで学ぶのか、どの学校に行くのか、何を着るのか、どういう友達と付き合うのかなどをすべて母親が決めてきたと言います。先んじて色々なことをやってもらえた分、楽ではあったのですが、一方では自分がどうしたいかをわからなくさせられている感じがずっとあったとのことです。

 

そんな彼女は大人になった今、相思相愛の相手と出逢えたのですが、いつもどこか相手のことが信じられなく、自ら関係を壊したくなってしまう、という悩みを抱いています。

 

Aさんのように過保護や過干渉な環境で育った子供は、いつもどこか「理解されていない」「わかってもらえていない」「人は自分の思い通りに人を動かす」といった不満を抱えたり、「自分が信頼されていないのではないか」といった自己不信を持つことになります。さらに自分自身で何かを成し遂げたという経験が少ないので、自信も育ちません。

 

そして、これらの自信の欠如や不満感の蓄積は子どもの心の中で無力感を深め、自分で自分の人生を選んで決めている、「自分が自分を生きている」という感覚を弱めてしまいます。それにより、自分の領域はここからここまで、という風に境界線を引くことを難しくさせるのです。特に愛情が絡む関係であると、境界を越える親の行為を愛情だと勘違いするために、なおさらわかりにくくなります。

 

その結果、
・自分が何が好きなのか、本当は何がしたいのかがわからなくなる
・何かを決めたり、判断したりするときに怖くなってしまう
・相手を試して、本当に大丈夫だと思えない限りは判断や行動がしにくくなる
・誰かの判断をいつも仰ぎたくなる

ということが起きることになるでしょう。

 

Aさんが今、パートナーと関係を深めていくにあたって、抵抗感がでてきてしまうのも、理解ができますね。

 

 

今回は境界線を越える、越えられるのを許すことで起こる共依存の関係をパートナーシップと親子関係を例に解説をしました。

次回は、相手に言ったり、したりしたことが良かったのか? と気になったり、自分のせいだと思ってしまう時を例に、その時の心の状態について見ていきたいと思います。

 

 


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人間関係のしんどさを解決する健全な境界線①~自分を大切にしながら相手も大切にできる~

2022年9月15日

今回から、新しいシリーズとして、境界線について書いていきたいと思います。

健全な境界線が引けると、おおかたの人間関係の悩みが解決すると言われているほど、円滑な人間関係を築いていくことと、健全な境界線が引けるかどうかとは密接な関係があります。

今回は、まずは境界線とは何なのか?を理解します。その上で、次回からは2回にわたって、健全な境界線を引けない場合、どんなことが起きているからなのか?を心のしくみから見ていきたいと思います。

 

境界線って何?

まずは、境界線とは何なのか?を見ていきましょう。

 

国語辞典「大辞泉」には、「境界線とは、土地のさかい目の線。また、物事のさかい目」とあります。

 

例えば、空間や土地などは、契約や登記といったルールによって線引きされた形として、壁があったり、塀や線があったりして、境界線がわかりやすく存在します。

また、物事のさかい目は、例えば、扇風機とサーキュレーターは、モーターで動いているという点は共通ですが、人の体に風をあてて涼しくさせるという目的と、一方は空気を撹拌するためのものといった風に、「目的の違い」によって、境界ができるわけですね。

 

つまり、このさかい目は、区分線や境界線が自然にあるわけではなく、何らかのルールや定義、基準によって「どこまでがこっちのもので、どこまでがあっちのものなのか」が明らかになり区別され決められるということです。

また、一旦、区別され、境界ができると、境界線で区切られたそれぞれの所有地(エリア)で起きることについては、各自が責任を持つことになります。自分の庭の芝が枯れそうになれば、自分が水や栄養を与えたり、芝が伸びれば自分が刈り取って整えたりするようにです。

そしてこのように各自がそれぞれの所有地(エリア)で責任を持てている限り、関係性は安定的なものとなります。

 

人間関係で境界線を決めるものとは?

これを自分と他者という関係に当てはめることができます。

自分と他者との間の境界はどのように決まるのでしょうか?

 

それは、

 

「感情や思いといった各自の中で起きることについて、どこまでが私のもので、どこからが相手のものなのかが見極めること」によって決まってきます。
 
「見極める」というのは、「それらに責任が持てるのは誰なのか? コントロールできるのは誰なのか? がわかっていること」

と言ってもよいかと思います。

 

つまり、自分と他者との間で健全な境界線がひけるのは、

 

「自分の中で起きることについて、それらに責任をもてると思えているかどうか、コントロ―ルすることができるのは誰かがわかっている」時である

ということです。

 

境界線に関する私の事例

私もこれまで(そして、今でも!)、たくさん境界線を越えたり、越えるのを許してきたりしました。

 

私が境界線を越える事例

私には、姪っ子がいるのですが、彼女は、部活道以外に書道やダンス、楽器の演奏に取り組みながら学生生活を送っています。
その彼女に対して、「学校の勉強は大丈夫?ちゃんとやっている?」とついつい電話口で確認したり、発破をかけたくなってしまうのです。しかしながら、どういうペースで勉強を進めていくのかは、本来、姪っ子の所有地(エリア)のことで、彼女が決めることです。それなのに、「おばちゃんの言うとおりにやった方がいいよ」とか、「勉強以外のことも大切だけど、勉強もコツコツとやらないとダメだよ!」などと私のやり方や提案を押しつけたとしたならば、それは、境界線を越えることになります。

 

また、もう一つ、越えた例として、今でも苦笑いしながら思い出すことがあるので、そちらもご紹介しますね。

 

それは、イギリスにいた2010年頃だったと思うのですが、その頃はまだまだ不安感が強くてパニック障害の症状も出たりと不安定な状態で過ごしていた時期で、週に1度カウンセリングのセッションに通うのがルーティンとなっていました。そして、そのカウンセラーさんが何かの講座をされるということで、そちらに参加することを決めたのですが、会場がロンドンから電車で数時間という場所でした。乗り物恐怖がある私は、当然不安感で一杯で、特に日本と違って接続が悪いイギリスでは、どうやったら混まない電車に乗っていけるだろうとそのことばかり考える毎日です。

いよいよ講座の日が近くなったあるセッションの日に、私がしたことは、頼まれてもいないのに、講座の時間に間に合う電車の時刻表をリスト化したものをカウンセラーさんに渡すということでした。もしかしたらカウンセラーさんは前乗りで前日から現地に向かうかもしれないですし、電車でなく車で向かうかもしれないですし、いつどうやって行くのかを決めるのは、カウンセラーさんなのに!です。

ですが、その時は、不安でしょうがなく、その不安感に本当の意味で気づいていないので、それを相手に投影し、「相手も電車でスムースに行けることを望んでいるのではないか?」と勝手に想像して、作った時刻表を渡すということをしてしまうわけです。自分の不安感からこのような行為をしているとは全く気がついていないので、むしろ「親切なよい行いができた」とまで思っているぐらいでした(笑)。その時刻表をどうされたかはわかりませんが、恐らく「境界線を越えられたな」とカウンセラーさんは気づいていたと思います。

 

しかし当時もし自分が「私が不安なんだな」と気づいて、その不安感に向き合ったり、解消したりしてケアすることができていたら、全く違った行動になっていたことでしょう。

このように、私は私の中で起きた不安感について責任を放棄した結果、境界線を越えるということになってしまったのですね。

 

越えられるのを許す事例

心のことをやっていたり、自分を見つめましょうといったことを発信していると、私が「全部癒されていて、楽に生きているのではないか」と思われたり、言われたりすることが時々あります。しかしそんなことはありません。私なりに、悩みがあったり、自分を見つめるためのネタにはことかきません。

ところが、もし私が、相手の私への解釈やイメージを壊さないようにといかにも「楽に生きている私でいるように」と頑張ったり、無理をしたとしたなら、それは「境界線を越えられることを許した」ということになります。

反対に、「この解釈やイメージは、相手の中(所有地)で起きていることだな」と気づいて、私は自分の所有地(エリア)からは出ていかなければ、相手がいわば勝手に(!^^)抱いた解釈やイメージについてもリラックスした対応ができます。それは、例えば、懸命に否定することをしないとか、逆に相手のイメージに合わせようとしないといったようにです。

 

バイロン・ケイテイの三つの領域と境界線

スピリチュアルティチャーのバイロン・ケイテイは、私たちには三つの領域があると言っています。

それは、

・私の領域

・彼・彼女の領域

・神の領域

 

です。

ちなみに、神の領域というのは、天候、自然災害、事故、社会現象といった、個人の力の及ぶ範囲を超えた領域のことを指しています。

 

それぞれの領域を越えようとするとき、私たちは、苦しみを感じます。

 

例えば、今雨が降っている状況に対して、「晴れてくれないと困る!」と神の領域で起きていることに対して闘おうとすると、決して勝つことはできないので、自分を天候の犠牲者と感じて苦しくなってしまいます。

あるいは、母親が、娘が結婚をしないことをいくら心配しても、いつ誰と結婚するかは娘が決めることなので、母親はストレスに感じて苦しむことになりますし、娘の中にも結婚に対する焦りなどがあった場合は、母親からのプレッシャーはやはり苦しみとなります。

 

私たちは、自分の中で起きることについて、それらに責任をもてると思えていて、コントロ―ルすることができる(何かを選択したり、決めたりすることができる)のは誰なのかがわかっていると、「雨が降っていること」、「娘がまだ結婚をしていないこと」、「母が心配をしてあれこれ言ってくること」は、心地は良くないかもしれなくても、苦しみにはならないのです。

 

自分の領域(所有地、エリア)の中に留まることがもたらすもの

健康な境界線を引くことができると、犠牲者、加害者というものが出現しないので、3つの関係性が安定します。

 

それ以外にも、次のようなことがもたらされます。

・自分主導で、自分が自分の人生を所有、生きているという感覚をもてる
 
・他者や何かに依存せずに、自分で自分の問題、人生を管理していると実感できる
 
・自分の能力がわかっており(自分が何ができ、何ができないかがわかっている)、その範囲内において自由や可能性を行使したり、楽しんだりすることができる
 
・自分と他者を優劣で見ず、愛や信頼をベースにした互いに尊重し合う対等な関係で関わることができる

 

境界線を越える例、境界線越えを許す例

逆に、領域の中に留まることができないときに起きることを、越える場合と、越えられることを許す場合とで、例を挙げてみたいと思います。

 

境界線を越える例

・私が幸せになれるためには、あなたが必要
 
・私の思い通りに動いてくれたら私は安心、幸せ
 
・私があなたの代わりに決めてあげる、やってあげる
 
・私の都合やニーズに合わせてちょうだい
 
・誰かのためにやってあげることで自分の価値が上がる、保てる
 
・私が希望するやり方で私を認めて

 

境界線越えを許す例

・自分で決めない、相手の都合や希望に従う
 
・自分は我慢する、自分の都合やニーズを抑圧する、断れない
 
・波風が立たないように、このまま自分が黙っていたり、何もしないでおこうとする
 
・決めれられてしまうのは嫌だが、自分で考えたり動いたりしなくていいので楽だと思う

 

境界線を引くことを難しくさせるもの

それでは、健康な境界線を引くことを難しくさせるものは何なのでしょうか?

自我という性質

以前の記事でも書きましたが、私たちの根源には、本質(ありのまま)から離れてしまったという“誤解”があり、そこから生じる、怖れや不安、欠如感といったものが、いつもあります。それゆえに、根源的に、自分のことを小さい存在、無力な存在という風に無意識的に思っていたりするのです。

 

人生の中での傷つき

そんな元々の性質をもちながら、人生を歩む中で何等かの傷を負った場合、自己価値が低まり、さらに小さい私、無力な私を強化してしまうでしょう。すると、そんな私にとっては、自分の領域の外のものを使って、自分を満たしたり、安心したりできるのではないか、という思いをさらに強めることになります。

これは、境界線を越える場合は、自分の領域外のものを自分の思い通りにして一時の優越感や満足感を得たいといった衝動やふるまいとなりますし、境界線越えを許す場合は、最初から従って、事を荒立てないことで安心感を得たいという風になります。

ですが、無力な私という思いを出発点にして、自分の領域外のものに依存するという意味では共通です。

 

このように、元々の自我という性質と、さらに人生の中での刷り込みや経験などで自己価値が弱められた結果の、「自分は小さくて無力な存在」という“誤解”を信じている私にとっては、いつも何かに依存していなければならないので、境界線を引いて、自分の人生のイニシアティブを握るということは難しいものとなってしまうのです。

 

ですが、これは裏を返せば、自分から自分への誤解を解いていければ、自然と健康な境界線を引いていくことができるということでもありますね。

 

 

まとめ

人間関係についての著書で有名な臨床心理学者のトマス・ゴードン博士は、健全な境界線が引けるとその境界は「通り抜けができるぐらい浸透性があり、危険物は閉め出しておける程度の強度がある」と言っています。

 

越える、越えられることを許す例を出しましたが、自分から自分への誤解を解いて、ゴードン博士の言うような健全な境界線が引けるヒントとなるように、次の回からは、越える、越えられるときにどのようなことが起きているからなのか? を個別のケースを出しながら見ていきたいと思います。

 

 


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心身の健やかさをもたらす3つの自律神経と安心安全の感覚(後編)

2022年8月19日

前回は、自律神経についての新しい発見について理解するとともに、心身の健康にとって、腹側迷走神経がきちんと機能していること、その鍵は安全と思える状況や環境が必要であることを解説してきました。

 

今回は、腹側迷走神経を機能させたり、整えていくことと、「安全な環境」とはどういうことなのかを、心との関係から見ていきたいと思います。

 

セルフイメージがネガティブだと安心安全な環境ととらえにくい

 

私たちには、潜在意識にあるビリーフやセルフイメージを通して、世界を見る(投影する)というしくみがあります。

一方、自律神経システムは、いつもここが安全なのか、危険なのかというのを検出して、どの神経系を優位に働かせるかを無意識下で、自動的に調整し、働くのでした。

 

つまり、ビリーフがネガティブであれば、世界は怖いと感じたり、人は優しくないという世界観になってしまいます。そして、この世界観は自律神経にも影響を与えます。それは、腹側迷走神経系が機能してのつながりや関わりの方に、というよりは、交感神経優位の緊張状態や、背側迷走神経がより優位に働いて消極的な状態(避けたり、億劫に感じたり、閉じこもったり)の方になるといったふうに、です。

これはつまり、どんなに物理的に安全な状況、環境を用意されたとしても、内側の状態が変わらない限り、危険や脅威だという世界観の中にいることになり、腹側迷走神経がうまく機能できず、交感神経や背側迷走神経が日常的に用いられてしまうことが起きるということです。

 

それでは、内側の状態を変えて、安心安全の感覚を回復していくためにはどうしたらよいのでしょうか?

 

安心安全の感覚の回復のために必要なこと

過去の物語、過去の自分との同化から抜けて、今ここに戻る

私たちが苦しんでいる時というのは、ビリーフやセルフイメージをすっかり信じ、同化している時です。ビリーフやセルフイメージを信じている時というのは、ある意味、そのビリーフを持つに至った過去の体験(物語)を生きていて、「今ここにいない状態」という言い方をしてもよいかと思います。それは例えば、いじめにあった経験から「私は迷惑な存在だ」というビリーフを持つに至った人がいた場合、今冷房のきいた快適な安全な空間にいるにもかかわらず、いじめられた体験(物語)の中の自分になっていて、周りは私を受け入れてくれているのか?と不安を感じ、自律神経も巻き込んで緊張をしているようなものです。

 

このような状態は、今、実際に起きていることを完全に見過ごしている状態とも言えるでしょう。ですから、過去の体験(物語)から出るためには、「今」に戻る必要があるということです。

そのためには、今実際に体験していることに目を向けることです。

例えば、

・ソファに座っている時の背中が背もたれにあたっている感覚とか、
 
・コーヒーの匂いが鼻腔一杯に広がっている感じとか、
 
・呼吸のリズム
 
に注目をしてみるのです。

 

身体の中にあるエネルギーを解放する

また、私たちが、過去の体験(物語)を信じてしまうのは、その時に感じていた感情―感覚―思いを身体に保持しているからでした。

 

ちなみに、野生の動物たちは脅威に遭遇し、闘うことも逃げることもできないとなった場合、背側迷走神経系の凍りつきモードを作動させて、「仮死状態・死んだふり」をして生命を維持します。そして、脅威が去ると、身体を震わせて、凍りつきのときに身体にためこんだエネルギーを放出して、背側迷走神経系からニュートラルな状態に戻すのです。

しかしながら、私たち人間の場合は、文化的背景などから、震えはよくないものとみなし、脅威を感じた際に閉じ込めた感情―感覚―思いを解放せずに、とどまらせてしまうのです。よく、フラッシュバックで、当時をありありと思い出したりするのは、身体に解放されていない感情ー感覚ー思いがあるためです。

 

このような心のしくみの観点からも、神経系システムの観点からも、心も身体も「脅威は終わった」と感じるためには、身体に働きかけて、身体にたまったエネルギー(感情―感覚―思い)を解放することが必要であることが理解できるかと思います。

 

ちなみに私は、身体にある経絡を刺激しながら、抑圧された感情―感覚―思いを解放していけるEFTやマトリックスリインプリンティングといったセラピーをセッションで使いますが、上記のしくみからも理にかなっているなと思います。

 

腹側迷走神経系が未発達だと、安心安全の感覚があまりよくわからない

前回の記事にも書きましたが、腹側迷走神経は、生れながらに持っているものではなく、生育の過程で発達していくもので、養育者から十分なケアを受けられたという感覚があったかどうかがこの発達に関連があるのでした。

また、私たちは生まれてから6、7歳までの間に、家庭内の雰囲気、エネルギーをスポンジのように吸い込んで育つとも言われます。ですので、何かはっきりとわかる形でのニグレクトや虐待などがなくても、腹側迷走神経の発達が阻まれた場合、自分自身の中に安心安全な感覚が持ちにくいままとなり(そもそもわからない、ということもあるでしょう)、それが生きづらさにつながってしまいます。安心安全な感覚がよくわからない中で、それでもなんとか自分一人で生き残れるようにと、背側迷走神経による防衛反応を優先的に作動させるので(こうした中で、なんらかのビリーフやセルフイメージも持つことにもなるでしょう)、「生命の維持」は確保はできますが、社会的交流のモードなどからは遠ざかってしまいますから、人との関わりが難しくなったり、孤立感が高まったりと「いつもなんだか生きづらい」ということになってしまうのですね。

 

また、このような安心安全な感覚が脆弱だと、「危険なことに遭遇したとしても、いつかは安心を感じられるところに自分は戻ることができる、いつかはこの不安感は終わる」という確信や信頼を持ちにくくなるとも言われています。自分自身の中での「自分は大丈夫だ」という感覚がうすいと、安心を与えてくれるものを外に求めることをし続けないといけなくなります。そしてそれをしている限り、自分自身の中に安心安全な感覚を得ることはできないのです。このことからも、生きづらさや苦しみから解放されるために、自分の中での安心安全な感覚がわかっているかどうかが鍵になることも理解できるかと思います。

 

では、このような腹側迷走神経系が十分に発達しなかった場合、どのようにしたらよいのでしょう?

 

安心安全の感覚を育てなおすために必要なこと

それには、腹側迷走神経複合体」に注目してみるのです。

腹側迷走神経複合体は、腹側迷走神経だけでなく、顔や、喉、耳、頭に分布される神経類と形成されているのでした。

つまり、横隔膜から上の部分にある部位を活性化していくのです。

 

例えば、

・顔のマッサージ
 
・バーボーブーと口、表情を動かしながら声を出す
 
・ハミングする
 
・深い呼吸を意識する(特に吐くのを長くする)
 
・自分にとって快適と思える音楽や音に触れる
 
・安心感や安全だなという感覚を与えてくれるものと接する(自然に触れることかもしれませんし、安心できる人やペットとの交流などかもしれません。)

 

いくつかご紹介をしましたが、浅井咲子さん著「不安・イライラがスッと消え去る『安心のタネ』の育て方」にたくさんのエクササイズが紹介されています。参考にされてみるとよいかと思います。

 

まとめ

2回にわたって、自律神経のしくみと心がもつしくみとの関係から「安全な環境」とは何なのかを理解するとともに、安心安全の感覚をどう回復したり、育てなおしていくのかについて見てきました。

 

私たちの中に、安心安全の感覚を持てていると(持てるようになると)、(これまで)防衛(闘うか逃げるかの防衛や、凍りついての防衛)のために奪われていたエネルギーを、本来使うべきところに充てることができます。

それは、苦手な状況や嫌いな人が減って、臆せず人との関わりがもてるようになったり、
リスクを恐れずにチャレンジしてみようというやる気がわいてきたり、
安心して一人寛ぐことができる(凍りつきの休息とは違う休息のしかたで休める)
といったように、です。

 

このように、心も身体も「安心」を感じられるところから立ち現れてくる自分らしさから、他者と関わったり、物事にあたったりしていきたいですね。

 

参考文献:
「『ポリヴェーガル理論』を読む からだ・こころ・社会」津田真人著(星和書店)

ポリヴェーガル理論入門」ステファン・W・ポージェス著(春秋社)

「不安・イライラがスッと消え去る『安心のタネ』の育て方」浅井咲子著(大和出版)

 

 


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心身の健やかさをもたらす3つの自律神経と安心安全の感覚(前編)

2022年8月9日

今回は、自律神経と心の働きについて2回にわたって書いていきたいと思います。

最近、自律神経についての新しい発見があり、注目を集めています。なぜなら、その新しい発見によって、トラウマ、鬱、発達障害、不安障害などの様々な症状や状態について、自律神経の働きとの関連で、容易に説明がつくようになったからです。これは、私たちがどうして苦しむのかの謎を解き明かし、そして、そこからどう回復していくのか、何をすればよいのかの道筋も与えてくれるのです。

 

第1回目の今回は、まず、「自律神経」の新しい発見について見ていきましょう。

 

身体に働きかけるボトムアップのアプローチという潮流と新しい発見

 

「心と身体はつながっている」とよく言われますが、特に、昨今の心理学や心理療法の世界では、身体に働きかけるアプローチが、これまでの認知や思考に働きかける頭へのアプローチに代わって、「第4の波」とも言われたりしています。

 

これまでの認知や思考に働きかける頭へのアプローチが「トップダウン」のアプローチだとすれば、身体に働きかけるそれは「ボトム」からのアプローチだと言えます。

例えば「自分はもう大丈夫」といった新しい思いや解釈を持てるのは、不安感や落ち着かない感覚などが解消されて、新しい思いや解釈とマッチした身体の感覚や感情が伴うときです。そして、これまでの記事でも書いてきたとおり、感情や思いを解消したり、動かすには、それらを感じている身体への働きかけが必要でした。

 

また、私たちは、潜在意識にある普段気づいていない思い(ビリーフや思い込み)や感情に支配されていますので(それらを生きているので)、新しい思いや解釈を持てるようになるには、できるだけ意識の深い層にある思いや感情にアプローチをして、変容を起こした方がよいのでした。その際にも働きかけるのに必要なのは、身体をよく感じるということでした。

 

このように、自己の変容には身体に働きかけるアプローチが有効であり、「頭で納得しよう」といった形ではない、自然で、深い変容を可能にさせるという点において、ボトムアップのアプローチが注目されているということなのでしょう。

 

こうした潮流の中にあって、今回の自律神経についての発見は、心身の健やかさをどう保つのかについて、身体の機能という切り口からも裏づけたという意味でも「新しい」発見だと言えるのです。

 

自律神経についての新しい発見

 

それではまず自律神経の新しい発見から見ていきましょう。

 

これまで自律神経には、活動や緊張のモードと関係がある交感神経とリラックスやくつろぎと関係がある副交感神経があって、それらが互いに調整をしながら働いていると考えられてきました。

しかし最近、副交感神経には2つの真逆な働きがあると提唱する「ポリヴェーガル理論」が登場しました。

それによると、副交感神経は、その80%を迷走神経が占め、あらゆる臓器に広がっているそうなのですが(※下記図を参照)、この理論の名前にあるように副交感神経の多くの部分を占める迷走神経は多重(「Poly」)であり、「背側迷走神経」と「腹側迷走神経」に分けられる、というのです。

※元々、迷走神経は、この図にあるように、脳幹から出て、頭部(顔)、首、喉、胸、お腹まで広く分布している(迷走している)ので、このような名前がついているそうです。

つまり、自律神経系は、
交感神経系背側迷走神経(複合体)腹側迷走神経(複合体)という3つからなり、
それぞれが補完しあいながら、環境に適用できるよう作用しているのだそうです。

 

ひとつずつ順を追って見ていきましょう。

 

背側迷走神経は、延髄の背中側から出て、主に横隔膜から下の器官に到達します。

背側迷走神経複合体は、背側迷走神経と、求心性迷走神経(内臓から延髄内の孤束核に入ってくる神経ネットワーク)から形成されており、背側迷走神経は、危険に遭遇にしてどうすることもできないときに働き、私たちはフリーズします。「フリーズ」というと一見ネガティブに聞こえるかもしれませんが、フリーズすることにより生命を守ることができるので、大切な働きでもあるのです。

 

一方、腹側迷走神経は、延髄のお腹側を起点として、横隔膜より上にある器官(心臓、肺、喉)に到達します。

そしてこの腹側迷走神経は、顔面神経や三叉神経、舌咽神経、聴神経などと連動して「腹側迷走神経複合体」を形成しているのですが、これによって、豊かな表情をつくったり、声のトーンを変えたり、人の目を見たり、人の話を聴いたりしながら円滑な社会的交流を図ることができるのです。

 

また、この理論では、それぞれの神経系を進化の過程からも説明をしています。

 

一番古いのが「背側迷走神経系」で脊椎動物の始めから存在し、
2番目が「交感神経系」なのですがこれは魚たちの誕生とともに登場し、
一番新しい「腹側迷走神経系」は哺乳類以降の動物が獲得した神経系だそうです。
哺乳類は、相手の声のトーンや、表情を見たりしながら関係性を構築していきますが、これを可能にするのが、この腹側迷走神経であることから、この神経系は「社会神経系」とも呼ばれています。

3つの神経系の働きは?

 

腹側迷走神経は、「社会神経系」と言われるように、人や環境に対して安全と感じられる環境で、「社会的な交流、関わりをもった休息や緩み」の時に働きます。例えば、家族や親しい仲間と会話をしたり、楽しい時間を共有している時などにこの神経系が作動しています。

また、腹側迷走神経は、生れてから18カ月は存在しないため、その期間は、親や家族などの養育者からのケアを十分に受けていると感じられているかどうかが、この神経系を発達に大いに影響があるとされています。

 

一方、安全な環境から一転して「脅威だ」と感じられた場合、「闘うか、逃げるか」のモードに切り替わりますが、その際に作動しているのが、交感神経系です。腹側迷走神経から、交感神経が優位になり、緊張が起こります。動悸が早くなったり、血圧が上昇したりなどは、この作用によるものです。脅威ある環境の中で、文字通り、闘うのか、逃げるのかという「能動的な」防衛をするために使われる神経系と言ってもよいかと思います。

 

さらに危険な状況の中で、闘うことも逃げることもできない「生命の危機」となった場合、背側迷走神経が交感神経に代わって優位となり、私たちは、「フリーズ」します(凍りつき)。「生命の維持」という「受動的な」防衛反応に切り替わるので、「社会的な交流や関わりをもたない休息(人との関わりを避け、閉じこもる)」となります。いわゆる鬱や引きこもりといった状態の時はこの神経系が支配的に働いている時と言えるでしょう。

 

このように、3つの神経系は、「安全な状況、環境」、「脅威のある状況、環境」、「生命を脅かされる状況、環境」を感知、検出して(ポリヴェーガル理論では、「ニューロセプション」が選択しているという言い方をします)作動しており、安全→危険→生命の危機に応じて、上記の順番(腹側→交感→背側)のように階層的に出現します。

 

「階層的に出現する」と書きましたが、例えば、腹側迷走神経から交感神経への移行は以下のように出現します。腹側迷走神経は交感神経の急激な高まりを抑えるブレーキの役目も持っているので、「本当に危険だ」とわかるまでは、交感神経を抑制し、危険とわかった時点で初めて、このブレーキを緩めて、交感神経を作動させるという働きをします。私たちは、日ごろ、安全な環境だと判断される場合、安心して人と関わったり、活動をしたりしていますが、これは、腹側迷走神経複合体が作動した「社会交流のシステム」と、ちゃんとブレーキがかかった状態の交感神経系が上手くバランスがとれた状態で作用しているからなのですね。

 

このことを心と身体の苦しみという観点からとらえるならば、

安全な状況、環境で作用する腹側迷走神経優位の状態から、

危険な状態で作用する下層の交感神経、背側迷走神経系優位の状態への移行が急激なほど

 

また、腹側迷走神経優位の状態から遠ざかれば遠ざかるほど~つまり、交感神経系の「闘うか逃げるか」の防衛システムが優位になったままの状態や、背側迷走神経複合体の「凍りつき」の防衛システムが支配する状態から戻ってこれないほど~

 

心身の苦しみは深まるということです。

 

このように、私たちの心と身体の健康を維持するためには、3つの神経系が上手く制御したり、拮抗しあったりしてバランスよく機能していることが重要であるということです。特に、闘うか逃げるかの交感神経系優位の状態やフリーズ(凍りつき)の背側神経系モードから戻ってくるうえでも、社会神経系(腹側迷走神経)がうまく働いていることが大切であり、さらに、その社会神経系がきちんと働くかどうかは、状況や環境が安全であると判断されているかどうかにかかっている、ということもわかるかと思います。

 

ここまで、自律神経の新しい発見についてと、心身の健康にとって、腹側迷走神経がきちんと機能していること、その鍵は安全と思える状況や環境が必要であることを3つの神経系の出現の仕方から解説してきました。

 

次回は、さらに、腹側迷走神経を機能させたり、整えていくことと安全な環境とはどういうことなのかを、心との関係から見ていきたいと思います。

 

参考文献:
『「ポリヴェーガル理論」を読む からだ・こころ・社会』津田真人著(星和書店)

 

 


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幸せになることを選べない、自分に許すことができないとき~ビリーフを生きる私たち~#4 回復への道

2022年6月23日

ここまで3回にわたって「幸せになることを選べない、自分に許すことができないとき」というテーマで、3つのケースをご紹介しながら、私たちは「ビリーフを生きている」ということについて心の仕組みとビリーフとの関係から読み解いてきました。

シリーズ最後の今回は、このようなビリーフからどのように自由になっていくのかについて書いていきたいと思います。

 

ケース毎のアプロ―チ

ケース#1:婚約を破棄されたお母さんの場合

 

「人は去っていくものだ」「幸せは長続きしないものだ」という思いを強く持ったであろうお母さんですが、小さい頃に生みの親が次々と亡くなったという経験は、お母さんにとって、生き残れるかどうかという恐怖を非常に刺激された出来事であったろうことは容易に想像できます。このお母さんの場合は、親を失う経験で感じたであろう感情や感覚、思いを、解放をしていくことがポイントになります。実際には、親の死に直面している当時の小さい頃の自分をイメージし、その時に感じていた感情や思いを当時の自分に現在の自分が聞き出していきます。その際、タッピングを使うのですが、現在の自分がイメージの中で、当時の自分をタッピングして、当時の自分の感情や感覚、思いを解放していきます。

 

ここで感じた感情などが解消されないまま、婚約者が去っていったという経験が重なることで、さらに傷が深まることになったことでしょう。だからこそ、お母さんは諦める、我慢するという人生を生きるしかなったということでもありますね。

すでにお母さんは、90歳近いとのことですので、感情の解放などをするためにセラピーを受けようと考えるのは難しいかと思いますが、親を失うという経験での感情などを「解放」しない限り、このビリーフを生きることがずっと続くことになるのです。

 

ケース#2:仲間に選ばれるかどうかをいつも案じてきたAさんの場合

 

Aさんは、「班割り、係ぎめ、遊びやスポーツのグループぎめがあるとき、いつも緊張と情けなさで生きた心地がしなかった」と言っていますが、Aさんの場合も、まさにこの時の感情や感覚、思いを解放していくことが大事です。やり方はケース#1と同様、自分は選ばれるのかどうなのかと、他人の判断を待っていた当時の自分をイメージして、その自分が感じていた感情をタッピングしながら解放していきます。それはものすごい緊張感やいたたまれないような心地の悪さ、怒りなどといったものかもしれません。どんな感情や感覚、思いを感じていたのかは、イメージした当時の自分に問いかけるとちゃんとわかるのです。

そして、こういったものが解放されていけば「頼れるのは私だけ」といったビリーフが緩むでしょう。それによって、無理な頑張りもしなくてすみ、頑張りのはけ口としての「寝る前にネット動画を観ずにはいられない」という依存的行動が要らなくなっていくでしょう。

 

ケース#3:悪いことをしたと自分を責めているBさんの場合

 

Bさんは、自分がいじめをしていたことに罪悪感があるわけですが、自ら好んでいじめをしていたとしたら、罪悪感は感じないはずです。しかし、罪悪感があるということは、好んでいないのに、それをしなければならなかった「理由」があるということです。この理由がわからない間は、「自分が悪い」とずっと自分を責め続けることになってしまいます。この罪悪感から解放されるには、決してしたいことではないのに、他者をいじめることでどんな自分の感情や思いに向き合わなくてすんだのか? 他者をいじめることを選択するほど、本当はどんな気持ちがあったのか? を理解し、そしてそれらを解放していくことが必要です。

ここも上記2つケースと同様に、当時の自分の感情を解放していくことになるのですが、イメージする自分というのは、他者にどんなに感情をぶつけていても、決してすっきりしていない自分、になります。Bさんの場合、不安感やさみしさがずっとあった小学生の自分でした。Bさんのご両親はいつも忙しく(地域の名士だったお父さんは平日も休日も自宅いなかったとのこと)、学校から帰ってきても一人おうちで帰りを待っていなければいけなかったそうです。他者を傷つける行為は、この不安感やさみしさからのものだったのだということを理解できたことで、罪悪感に苦しまなくてよくなりますし、ひいては、強迫観念や行為によって自分に罰を与えなくてよくもなりますね。また、小学生のBさんが抱いていた不安感やさみしさを解放していくと、どんなに両親が忙しくても自分は愛されているといった感覚や安心感が自然と出てくるので、昇進の話に対しても「愛されている自分」という自分の視点から、この話を聞くことができる、という風にもなっていくのです。

 

自我の性質とビリーフ

「私たちは、ビリーフを生きる存在である」ということを書いてくるとあたかもビリーフが悪者なんだ、そういったものを持たない方がよいのではないか、といった思いが出てくるかもしれません。

しかし、わたしたちは生まれてから成長していく過程で、多かれ少なかれ、必ず何らかのビリーフを持つものであり、そのことから免れることはできないのです。それは、私たちの「自我」の性質と関連があるからです。この「自我」について触れておきたいと思います。

 

「自我」とは普段の私たちのことです。

私たちの根源には、本質(ありのまま)から離れてしまったという“誤解”があり、そこから生じる、怖れや不安、欠如感といったものが、いつもあるのです。

これまでの記事でも書いてきていますが、いつも肉体として生き残れるのか、精神的に生き残れるのか(=どれだけ周りに受け入れてもらえるかなど)のサバイバル(生き残り)の怖れストーリーが常にあります。

 

普通にしていても愛をベースにした状態ではなく、怖れをベースにした状態がデフォルトとなっているのが「自我」である、ということです。そしてそれがそもそもの「根源的な苦しみ」なのです。

 

そして、この“誤解”がある以上、「自分とはこういうものだ」「〇〇とはこういうものだ」といった自分や物事を定義づけるものが必要になります。それがビリーフです。「ビリーフから免れない」と先に書いた理由がここからも理解できるかと思います。

 

元々のベースが不安や怖れがある上に、人生を生きていく中で、生き残りの不安を刺激される出来事に私たちは遭遇します。その時に、人はその苦しさを和らげ、自分を守ることを考えます。それは、何らかのビリーフを形成し、信じるという方法で、です。

 

ケース#1のお母さんが「私は一人ぼっちと信じておけば、もう傷つかない」、ケース#2のAさんが「人とは自分の基準で選んでくるものなんだと信じておけば、もうさらに傷つかなくてすむだろう」、ケース#3のBさんが「自分は悪い子としておけば、不安感やさみしさに向き合わなくてすむ」と思うのは、まさにこれです。Bさんの強迫行為は、この不安感やさみしさから自分を守るための行き過ぎた形とも言えます。

 

私たちが究極に求めている本質への回帰

 

私たちは、もちろん傷つきから回復したいと求めます。一般的なカウンセリングや心理学はここを目的としていると言えるでしょう。しかし、自我の性質という観点から考えた場合、私たちが深いところから希求していることは、さらに踏み込んだ「本質から離れてしまったという“誤解”を解いていきたい」ということなのです。

 

では、それにはどうしたらいいのでしょうか?

 

まず前提となるのは、私たちが特に苦しくなっている時や、その苦しみが何かの症状として出ている時は、普段ですら意識されていない本質が、傷つきによって、なおさら見えなくなっている時だということです。ですから、この傷つきにある感情や感覚、思いを入り口に、そこから本質を覆っているものを解放していくことで、ビリーフや怖れのストーリーを変容させていくことが必要ですし、それが、本質(ありのまま)に近づいていく、回帰していくことにもつながっている、ということです。

 

また、感情や感覚、思いは、生来変化する性質のものであるという点で、非常に実体のないものである、ということもポイントです。傷つきによってできたビリーフや、それを支える怖れのストーリーもこれらで構成されているのですから、実体がないのです。だからこそ、こうした感情、感覚、思いが解体されていくと、見えなくなっていた私たちの本質というものが立ち現れてくるのです。それは、怖れがなく、なんらかのビリーフや定義、概念にもはや規定をされていませんし、それらに依拠する必要もないのです。そういう意味で「真の自己」と言ったり、「愛そのもの(愛ベース)」と言ったりできるかと思います。最も安定し、安心があり、受容があり、静かな場所でもあるでしょう。

 

まとめ:ネガティブなビリーフから自由になるには

今回は、冒頭にケースごとにアプローチを説明するとともに、私たちの苦しみの元と関連がある自我の性質や“誤解”について解説をしてきました。

 

ビリーフを生きることで生じる苦しみから解放され、ネガティブなビリーフから自由になっていくには、

 

・そのビリーフを持つことになった経験は何なのか(どんな怖れのストーリーなのか)
 
・またその経験(ストーリー)の中にはどんな感情、感覚、思いがあるのか、を探り、それらの感情、感覚、思いを解放したり、変容させていくことが必要である

 

ということが理解できたかと思います。

 

 

一見、表面にでてくる悩み、苦しみ、症状といったものは、やっかいなものと見えがちですが、それらが、傷つきを癒すきっかけとなるのみならず、本質や愛への回帰へとふり向かせてくれるものなのです。悩みや苦しみをきっかけに、ビリーフや定義づけから限りなく自由になって、本質や愛をベースに動いていきたいですね。

 

 


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幸せになることを選べない、自分に許すことができないとき~ビリーフを生きる私たち~ #3ケースC 「悪いことをした私は幸せになってはいけない」

2022年6月9日

今回はシリーズ最後のケースのご紹介です。

 

昇進を素直に喜べないBさんと強迫性障害

Bさんは、40代の女性です。Bさんは、外出するとき、何度も戸締りを確認しないと外出できなかったり、何か不安を想起させる思いが出たときに「おまじまい」をして想念を打ち消さないとすっきりしない、ひどい時は、その想念に取りつかれて不安定になってしまうという生活を送っていらっしゃる方です。その一方で、仕事について、それなりにキャリアを積み重ねてきた方で、そういう状態に自負もあるだけに、この強迫観念が浮かばなければずいぶん楽になるのにと思っていらっしゃいます。

 

そんなBさんの前に、昇進の話が持ち上がりました。ところが、嬉しいはずなのに、最近は強迫観念が強まり、不安感や恐怖感は高まり、眠れなくなるなど、疲労困憊の状態です。このまま昇進の話を受けてよいのだろうかとまで思ってしまう、ということでセッションにいらっしゃいました。

 

 

本来喜ばしいはずの昇進なのに、素直に受け取ることができないことと、強迫観念が浮かんだり、それを打ち消すための行動をすることとの間に何か関連はあるのでしょうか?

 

 

Bさんの話を聞いていくと、Bさんには自分の中で「汚点」「黒歴史」と思っていることがありました。

Bさんは小学生の頃いじめっ子だったそうです。イライラしたりすると、だれかをのけ者にしたりして、自分の気持ちのはけ口を求めていじわるをしていたそうです。しかしそういうことをしているということを親(ちなみに、お父さんは、地域での名士だったそうです)にも先生にも言えず、弱いものいじめを止められない悪循環の中にいたそうです。憂さ晴らしができたような一時の快感がある一方で、そういう自分であることを恥じてもいましたし、罪の意識もあったと言います。特に、大人になって、自分がしていたことについて冷静に判断できるようになってからは、さらに否定感が伴うようになって、後悔や罪悪感が強くなったそうです。大学進学と同時に故郷を離れたBさんでしたが、自分のこういう行動を知っている人に会いたくないので、実家にもあまり帰らず疎遠になっているとも。

「汚点」からは物理的に距離を取れていて、かつて自分がそんなことをしていたと知っている人は誰もいない環境にいるのに、自分自身に嘘っぽさや、自分をごまかしているような感覚を感じ、自分の人生が上手く運んでいても、だれかの不幸のもとに今の自分の人生があるかのようにさえ思えて苦しいのです。

 

このBさんのビリーフと、ビリーフからとる行動

 

このような経験があるBさんに強迫観念や強迫行為が始まったのは、小学3年生ぐらいの頃だと言います。初めは、通りの角で直角に曲がったり、本やノートの角を触る、鉛筆などの長さを順序良く揃えるといったものだったそうで、それができないと気持ちがすっきりしない、といったようなものだったそうです。道徳の「善い行い、悪い行い」といった内容の授業で、自分の行いについて改めて自分は悪いことをしているんだ(いたんだ)と認識したときからだそうです。「この授業は、すごく自分がわがままで悪いことをしているんだと思わされた出来事だった」と言います。そして、これがBさんの中に「自分は悪い子」「自分は自分勝手な悪い人間」という思いを持つきっかけになったようです。そしてそれ以来、自分のことを罰し続けなければいけないことになりました。自分がしたことについて、親や先生に告白することもできず、一人自分が罪の意識を抱え続けていたことになります。ちなみに、それ以来、いじめることはしなくなったそうなのですが、クラスの中で引っ込むような感じになり、のびのびできない居心地の悪さも感じていたそうです。

 

 

Bさんのように罪の意識があって、恥の意識や罪悪感に苦しむ人の場合、どのように世界を見たり、行動をしたりするのでしょうか?

 

例えば、

・周りの目が気になる。・周りに遠慮をする。・相手、周りが自分をコントロールしてくるように感じる。
 
・自分が主張したり、我が出る、我を出すことを怖れる。またそのような行動をしている人を羨ましく思ったり、逆にうとましく感じる。
 
・自分が誰かを傷つけていないか自分監視をする。また他者が誰かを傷つけていると見えた場合、怒りが出たり、傷つけられている人に対して同情心が起きる。
 
・「幸せ」や「満足度」について、自分が決めた、自分にふさわしい度合いにこだわる(それ以上のものが手に入ったり、訪れることになると怖くなる)。
 
・自分を赦してくれるような状況、相手に惹かれる。エスカレートすると依存的になることもある。
 
・誰も自分のことはわかってくれないだろうと孤独感、分断感を感じ、苦しむ(あきらめや孤独感を通して周りを見る)。
 
・自分は罪深いと信じているので、自分を罰する行動や、償いをするための行動へと自身を駆り立てる。

 

Bさんの場合は、「自分は悪い子」「自分は自分勝手な悪い人間」と信じているために、そんな自分に何かいいことが舞い込んできた場合は、なんらかの「罪滅ぼし」(自分を罰し、制御をかける)をしないと、それを受け取れないと思っていると考えられます。その罪滅ぼしの一つが、強迫観念を持ち、強迫行為ということになっているということです。

 

強迫観念がでたり、「おまじない」といった強迫行動をとらなければいけないのは、生活を多いに制限されますので一見不自由さを伴う不快なものではあるのですが、一方では、「悪いことをした」、「罪を犯した」と信じているので、自分が罪を償うために必要な行動となっており、頭ではなんとかしたいと思っているけれども手放しにくいものになってしまうということです。

 

今回、昇進の話が出てから、強迫観念・行動が強まった理由が、Bさんのビリーフとの関連で改めて理解ができるかと思います。

 

 

 

さて、このBさんが、昇進の話など自然と受け取れるようになるには、これまでも書いてきていますが、やはり、「自分は悪い子」「自分は自分勝手な悪い人間」というビリーフから自由になっていくことでしょう。

 

では、どのようにビリーフから自由になっていくのかを、次回、シリーズ最後の回として書いていきたいと思います。

 

 


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幸せになることを選べない、自分に許すことができないとき~ビリーフを生きる私たち~#2 ケースB「私に幸せはマッチしない」

2022年5月25日

今回は前回に引き続き、シリーズの2つ目のケースのご紹介です。

 

仲間に選ばれるかどうかをいつも案じてきたAさんがやめられないこと

 

Aさんは50代の女性です。「頼れるのは自分しかいない」という思いのもとに、学生時代からも勉強、仕事に励んで生きてきた方です。

 

この方にとって、学校という場は、とても苦痛な場所でした。班割り、係ぎめ、遊びやスポーツのグループぎめがあるとき、いつも緊張と情けなさで生きた心地がしなかったと言います。足の速い子、明るく快活な子から班やグループに選ばれていき、おとなしくて、運動が苦手な自分はいつも残りもののように扱われて、毎回ドキドキして、逃げ出したい気持ちで一杯だった、と。

 

このAさんが解決したいと持ってこられたテーマは、「疲れているのに、ネット動画を観ないとどうしても寝られない」というものでした。どんなに忙しくて、くたくたになっていても、どうしても観ずにはいられない、と言うのです。

 

このAさんのビリーフと、ビリーフからとる行動

 

このような学校での経験によって、Aさんの中では、「人とは、いつも、その人の基準でしか人を見ない」「私は(その基準では)選んでもらえない」「私はお荷物な存在」というビリーフが、埋め込まれることになりました

Aさんは、「お荷物な存在」と言われないようにと、誰にも頼らずに(頼ることが悪、弱さの証明とまでも思っています)自分の力だけで生きていく、という生き方をしてきました(中学、高校と尋常じゃないほど勉強したそうです)。

しかしそこには深い孤独感や孤立感、心細さや不安なども伴うため、相当しんどい「頑張り」だったことと思います。

 

ちなみにこのような「ビリーフ」というものに普段は私たちは気づいていません。その代わり「悩み」として、次のようなものが意識されています。例えば、「疲れているのに休めない。休むことに罪悪感を感じてしまう」とか、「仕事や家事、育児について、やってもやっても達成感が得られず、周りが楽をしている、あるいは、上手くやっているように見えて、うらやましくてつらい」といったようなものです。

 

 

さて、学校での上記のような経験を持ち、それによってできたビリーフを信じているAさんの、今回のテーマである「幸せ」に対する関わり方はどういうものだったのでしょうか?

 

 

例えば、恋愛や結婚についておっしゃるには、「私は選ばれない」と思っているので、「相思相愛なんて、はなっから自分とは関係がない」とまで思っていたと言います。そして、「たとえ、別れたとしても自分が痛くない人を選ぼう」というふうに思っていたそうです。

 

Aさんは、結婚、離婚を経られたのですが、頼ること(「お荷物な私」になること)を許していないので、本心や本音をさらけ出すことも難しい結婚生活だったと言います。

 

「本心でぶつかったときに拒絶されたら生きていけない、と思っていた」と、Aさん。

 

Aさんにとっては、「お荷物な私」だからこそ、痛くならない人を選んだのに、その相手にまで拒絶されてしまったならば、それは自分が「お荷物以下」になることを意味しますので、そうならないように、決して好ましくはないけれどもせめて「お荷物」のレベルは最低限キープしようという動きになるわけです。

ですから、実際の夫婦関係では、夫婦間のやり取り、交流というのも最小限にして、できるだけお荷物のレベルから落ちてしまうリスクを避けよう、ということにもなってきます。(意識上に出てくる思いとしては、「二人でいても、上っ面な関係な感じがしてモヤモヤする。二人でいる意味があるのか?と思ってしまう」といったものであり、「私はお荷物」というビリーフに基づいての振る舞いや対応をしている結果である、ということには無意識です。

 

 

ちなみに「私はお荷物な存在」、「頼れるのは自分しかいない」という思いで突き動かされているAさんにとって、孤独感、孤立感、寂しさを抱え続けながら、頑張り続けるのはしんどくなります。どこかで息抜きをしたいという欲求もでてきます。息抜きが、「ネット動画を観ること」ということになっていたということです。頑張れば頑張るほど、この息抜きは手放しにくいものになってしまうでしょう。

 

 

この方が本当の意味で、疲れや、無理な頑張りをするということから解放され、生き方を信頼をベースにしたものに変換していくには、「その人の基準でしか自分を見てらもらえない」というこの方の世界観から抜け出す必要があるでしょう。

 

そのためにはどうしていったらよいのでしょうか? 今回のシリーズ最後に書いていきたいと思います。

 

 

今シリーズの次回では、「悪いことをした私は幸せになってはいけない」というテーマのケースを書いていきたいと思います。

 

 


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幸せになることを選べない、自分に許すことができないとき ~ビリーフを生きる私たち~ #1 ケースA「幸せは長続きしない」

2022年5月16日

今回からは、シリーズで「幸せになることを選べない、自分に許すことができないとき」というテーマでいくつかのケースを見ていきたいと思います。

 

というのも、先日、ある方と話をしていて、その方のお母さんのお話を聞く機会がありました。そのお話は、この方のお母さんは幸せになることを選べないでいたのではないだろうかと感じるお話だったからです。

それを聞いて、私たちは頭では幸せになりたいと願っているけれども、それをどこか選べなかったり、幸せになることを自分に許していないことがあるなぁと思いました。
ということで、これから数回にわたって、そうしたケースについてご紹介しながら、どうしてそのようなことが起きるのか、心の仕組みやビリーフという観点から読み解いていってみたいと思います。

 

婚約破棄をされたお母さんの結婚生活

第1回のケースは、前述のお母さんのケースです。

この方のお母さんには婚約をしていた方がいらしたそうです。お相手の方とは、相思相愛のもとの婚約だったそうで、お母さんは、「婚約が決まった時、亡くなった両親の仏壇に手を合わせながら、『幸せだなあ』と初めて感じた」そうです。ところが、その婚約が、突然破棄されるということが起きます。その理由は、相手の方に別に好きな人ができたからというものでした。そうした話を、その方は大人になってからお母さんから聞いたそうです。

 

その後、お母さんがお見合いで最終的に結婚相手に選んだ方(つまり私がお話をしていた方のお父さん)は、耳に障害がある方でした。

しかも結婚相手となったお父さんは耳の障害だけでなくいくつかの持病も持たれていたために、時に癇癪を起こしたり、感情のコントロールが難しい方だったようなのですが、お母さんはお父さんがどんなに理不尽な行動をとっても、ひたすら我慢して、家族の間に入って仲を取り持つ役目をされていたそうです。

 

また、結婚生活や子育てをしていく中で、このお母さんは、着飾ったり、パーマをかけたり、お化粧をすることや、何か贅沢をすることは、あまりされなかったそうです。

 

このお母さんのビリーフと、ビリーフからとる行動

お母さんが目の前にいらっしゃらないので、本当のところはわからないですが、このような生き方をされたお母さんが持っていたビリーフはどんなものだったのだろうかと思いをめぐらせてみたいと思います。

ビリーフは、私という存在を形成し、そして私たちの解釈や判断、行動に影響を与えるものなので、お母さんが実際にとられた行動や対応、生き方から、お母さんが持っていたであろうビリーフを想像することができるからです。

 

このお母さんは、小さい頃に生みの親を相次いで亡くされ、継母に育てられたそうです。そうしたお母さんが経験した体験や環境からも、このお母さんには「人は去っていくもの」「幸せは長続きしないもの」というビリーフがあると考えられます。それが、婚約が破談になったことで、「やっぱり人(幸せ)は私から去っていく」「やっぱり幸せは長続きしないものだ」とビリーフが強化され、さらに深く刻まれたのではないかと思います。

 

では、こうしたビリーフを持っていると、どんな行動を取るのでしょうか?

 

私たちはビリーフに則った生き方をしますので、上記のような経験やそれによるビリーフがあると、幸せを感じるということに対して臆病になったり、怖れたりするようになっていきます。その結果、頭では幸せになりたいと思っていても、幸せになるために積極的に人生の中でのチャレンジ、挑戦というものがしにくくなったり、そういったものを遠ざけたり、最初からあきらめるということをし始めます。期待が裏切られた時のショックを和らげ、自分を守るために、全体的に、自分や人生に期待しないという態度で自分の本心や本音を出さないように処理をしようとすることも同じしくみです。

 

 

 

また、こうしたビリーフを持っていると、無意識に人が去っていかないように行動することも考えられます。その結果、その人を繋ぎ止めるために、自分より人のことを優先しがちになるかもしれません。

 

 

このお母さんは、「継母に育てられた中で、精神的、経済的な負担をかけないようにと、日ごろから遠慮をしたり、必要以上に我慢をしていた」そうですが、こうした行いになったのも、また、結婚生活で理不尽な夫に我慢し続けたのも、そもそもそういう人と結婚したことも、上記のビリーフが関連していることが推察できます。

 

その方は、お母さんがお父さんを選んだことも「母に確認したわけではいし、母の中で、意識的か無意識的かはわからないけれども、『この人なら自分から去っていかないだろう』という人を選んだのではないだろうか」と話してくれました。

 

 

 

次回は、この「幸せになることを選べない、自分に許すことができないとき ~ビリーフを生きる私たち」のシリーズの続きで、「私は幸せとマッチしない」というケースについてご紹介したいと思います。

 

またシリーズの最後には、どのように信じているビリーフ、思い込みから自由になっていくのか、その回復の道についても触れていきたいと思います。

 

 


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