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ブログ 不安なときの対処方法 心のしくみを理解し安心をとりもどす

相手が選択、判断したことなのに、不安や迷いが生じてしまう。その理由とは?

2024年2月4日

今回は、相手がすでに何かについて選択をしたり、判断したりしているにもかかわらず、それらに対して不安がわいたり、迷いが生じているときに、心で何が起きているのかを心のしくみから解説をしていきたいと思います。

 

不安と迷いの中にいる友人のおばさんの姿

このテーマで書いてみたいと思った理由を少し書きますね。

先日友人と話をしていたときに、友人のおじさんとおばさんの話になりました。

現在、おじさんが病床にいらっしゃって、今後自分の状態が変化したときに延命措置をしないでほしいという意思を医師や、おばさんを含む家族に伝えているそうです。そして今病状はあまり思わしくない状況にあるとのこと。

友人が正月に実家に帰省した際に、おばさんからおばさんの兄である友人のお父さんに電話があり、かなり長時間の会話にお父さんが対応をしているというのを目の当たりにしたそうです。

話題は、おじさんが希望する「延命措置をしない」ということに対して、おばさんの中の迷いや、不安についてだったようです。友人のお父さんは辛抱づよく話を聞いていらっしゃるようでしたが、「どうしようもなく不安になるとかかってくるんだよ」と言っていたそうです。

 

今回の延命措置をどうするかについては、おじさんは、ある意味、自分がどう生きるか(自分の生命をどう終えるのか)についての選択、判断をされていると言えます。おばさんにとっては、長く連れ添った伴侶の生死に関わることですから、不安になるのも当然です。ですが、友人が話すおばさんの長い電話の様子やお父さんの言葉から、おばさんは、おじさんの選択を受け容れていいのかどうかについて確信がもてなくて、自分の中の不安感や迷いに苦しんでいらっしゃるのだなと思いました。

 

そして、こうした状況の中で友人のおばさんができるだけ不安定にならずに過ごせるにはどうだとよいのだろう?何がそれを難しくさせているのだろう?ということに思いをはせました。そのことが、今回の記事を書くきっかけとなりました。

 

友人のおばさんが不安定になっている本当の理由とは

思いをはせる中で、心のしくみの観点からおばさんの心の状態を考えてみました。

そして、おばさんが今不安定になっているのは、「おばさん自身が、なぜ不安や迷いの中にあるのかの本当の理由を、わかっていないからなんだな」と思いました。

 

私たちは、一見、相手の選択や判断が、不安や迷いを生じさせて、それらが私たちを苦しくさせていると思っています。ですが、実はそうではなくて、「(自分の中に)不安や迷いを生じさせているものが(確信が持てなくさせるものが)、何なのかを本当の意味で自分自身がつかめていない」からなのです。不安や迷いといった自分の反応のその理由がわかっていないから、苦しいのです

例えば、「ある人の顔を見ると怖くなる」という状態があったとしましょう。会うたびになぜかビクビクしたり、ソワソワするのです。ちなみに、「反応」というのは、体感覚や感情としてわかりやすく出てくる分、気づきやすいのですが、一方で、その反応が出る本当の理由は? と言われると、わからないのです。ですが、(セッションなどでよく心を見ていくと、)実は、小学生時代に担任だった厳しい先生に似ていたために、その先生を目の前の人に重ねていて、その結果ビクビクやソワソワが出ていたというのがわかったりするのです。つまり、この人の中では、厳しかった担任の先生との記憶があることで、目の前の人の顔に、「厳しくされる」「叱られる」という意味づけ(解釈)をつけてみていたということがわかるわけです。つまり、ビクビク、ソワソワの反応がでるのは、目の前の人の顔が原因ではなく、担任の先生との記憶の中で培った意味づけ(解釈)があるから、ということです。

 

このように、何らかの反応(ポジティブもネガティブも)が出た時には、そこにはその反応を生み出す、相手、状況、環境、自分自身への意味づけ(解釈)がある、ということです

 

意味づけ(解釈)がわかると、相手、状況、環境の犠牲者にならなくてすむ

さらに、ビクビクやソワソワの反応がでていた理由がわかることの良いことは、理由がわかっていれば、自分から力を奪われないということです。なぜなら、それらの反応は自分の意味づけ(解釈)から出ているのだなとわかっている限り、相手(自分自身も含む)や状況のせいにする必要がないからです。問題のすり替えや責任転嫁をしないので、犠牲者意識がありません。犠牲者意識がなければ、苦しみにはならないのです。

 

意味づけ(解釈)を探る問いかけ

では、話を友人のおばさんに戻して、おばさんは、どうすれば、できるだけ、反応に振り回されず、自分の力を奪われずに安定していることができるのでしょうか?

それは、これまでお話をしてきたとおり、夫の選択や判断が、自分にとってどのような意味づけ(解釈)になっているのかを、おばさん自身が理解するということが鍵であるということです。「夫(おじさん)の選択や判断が自分にとってどんな意味があるのか?」を自身に問いかけてみるのです。

ここにおばさんがいらっしゃらないので想像の域はでませんが、

 

例えば、

●万に一つでもよくなる可能性があるかもしれないのに、夫が人生(命)を諦めているように思える(そう思えて、悲しさを感じる)

というものかもしれないですし、

 

●夫が選択や判断をする上で、自分がのけ者になったように感じる(そう感じて寂しい)(自分ともっと相談をして決めてほしい)

というものかもしれないですし、

 

●一人になってしまう、一人で生きていかなくてはならない(と想像すると怖い)

というものかもしれないです。

 

これらの意味づけによって、犠牲者意識が強まり、どんどん苦しくなってしまうのです。

 

以上は、あくまでも意味づけ(解釈)の例です。
ですが、もし、おばさんが、こうした意味づけ(解釈)が自分自身の中にあって、その解釈に苦しんでいるのだな、と気づくことができたとしたら、夫の選択や判断が、「自分を苦しめているのだ」という見え方ではなく、「自分が悲しかったり、寂しかったり、怖かったり、と思っているからなんだ」「自分の中で起きていることなんだ」と自分に目が向き、夫の選択や判断に対して目を背けるのではなく、改めてそれらを尊重して、正面から向き合おうと思えて、犠牲者の目線から抜け出すことができるのです。

 

先にも書きましたように、私たちは、相手や状況、誰かのせいといった犠牲者意識に取り込まれていない限り、苦しみませんし、相手や状況、環境に影響されずに、強くいられます。

そして、その力を奪われない状態で、おばさんは、夫の選択や判断に純粋に向き合うことができるでしょう。そのように向き合う中で、おばさんがする判断、選択、行動は、たとえその結果がどういうものになったとしても、最終的に、その結果に対して正直に、全面的に受け容れることができるのだろうとも思うのです。

 

まとめ

今回は、友人のおばさんの話を例にしながら、不安や迷いなどの反応がある時、そこから抜け出す鍵として、その本当の理由である、「相手や状況、環境への自分にとっての意味づけ(解釈)」を自分が理解することだよ、ということをお話ししてきました。

 

自分の中の意味づけ(解釈)に気づくと、自分がその意味づけ(解釈)や感情と同化している状態から、解釈や感情と自分とが別のものになって、客観的に自分の状態を把握ができます。それによって、反応の渦から抜け出して、改めてどうしたいか、何ができるかに目を向けることができるのです。

 

〇〇は私にとってどんな意味があるのだろう?」この問いかけは、自分の中のもの(意味づけ、解釈)に出会い、自分への理解へと導いてくれます。そして、自分への理解は、「自分には力がある」ということを必ず思い出させてくれるのです。

 

 

 

 


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深い傷つきや絶望から抜け出すために大切なこと

2023年8月24日

今回は、「深い傷つきや絶望から抜け出すために大切なこと」について書いてみたいと思います。

夏の休暇を利用して、新潟のワイナリーにてツアーに参加したのですが、ツアーのガイドさんの言葉から、あるクライアントさんが辿った経過や変化のことが思い出され、それは、改めて私に勇気や力を感じさせてくれる経験になりました。今回は、そのことについてお話してみたいと思います。

 

ツアーに参加したこのワイナリーは、1992年に創業され、この30年をかけてこの土地にあった最適品種にようやくたどり着けたという、そんな歴史をもつワイナリーです。最初は水を引くところからも苦労があったそうですが、今では、9ヘクタールに20種類、2万7000本のぶどうが栽培されています。ツアーでは、このぶどう畑、精密に温度管理された醸造室、多くの樽が並ぶ樽熟成庫、3万本のワインが格納されているセラーなど、ワイン造りの中心となる場所を案内してもらいました。

 

最適な品種にたどり着くまでに30年を要したのは、この土地が、海岸に近いことから土壌が砂質であることや日本海側であることから湿気があることなど、この土地特有の風土や気候といった条件があったからだそうです。それらに合うものを試行錯誤を重ねながら見つけてこられたということでした。

 

30年前というと、自分の歳に置き換えると、私は、まだ20代。そんな頃から少しずつ畑を広げ、栽培数や生産本数を増やすことに尽力されてきたのかと思うと感慨深いものがありました。

 

また、ツアー中にガイドさんがおっしゃった言葉の中で印象に残ったものがありました。

それは、「ワインづくりに失敗というものはなく、いつも可能性を感じる作業である」というものでした。今年のぶどうは不出来かとか、味がよくないかと一見思えても、瓶熟成や樽熟成を経て、開けてみると思いもよらないよい味に変化していたということがあり、土地やぶどう、その醸造にいつも可能性を感じている、と。

 

私は、このようなワイナリーの歴史や、土地やぶどう、醸造の可能性の話を聞いて、あるクライアントさんのことを思い出しました。

その方は、親から十分な愛情がもらえず、深く傷つき、大人になってからも、親への許せない気持ちや、自身の中に渦巻く孤独感、無力感に苦しんだ方です。絶望から、死の淵を見るほどの苦しみも味わったともおっしゃっていました。

 

このような経験がある方だったのですが、自身と向き合っていく中で、この方の中にあった「自分がこんなつらい目に遭っているのは親のせいだ」という犠牲者意識が和らいでいき、この犠牲者意識から抜け出すことができるようになっていきました。

親がそのようなふるまいをしたのは自分のせいではなく、「相手の問題だったのだ」といったような、自分責めや自己否定をしない状態になり、つらく苦しんだ自分を許す気持ちも自然と出てくるようになったのです。

 

そして、こうした変化を経験された中で言われた言葉がありました。

それは、「私は私をあきらめなくて本当によかった」というものでした。この言葉は、「私は私自身と向き合うこと、またそれができる力をあきらめなくてよかった」と言い換えることができると思います。

 

小さな子どもにとって、自分が守られているか、愛されているかを感じることができるのは、親(養育者)や家庭の雰囲気からです。しかし、ニグレクトや虐待などによって、守られている感覚や、愛されている感覚を与えられない、愛が欠乏している状態のままだと、自分への認識や世界の見方に大きく影響を及ぼし、自分は愛されても良い存在なんだと思えず、自分でも自分を愛することができなくなったり、「世界や人は怖い」と思いこんでしまったりします。その状態は、大きなあきらめや絶望を感じさせることになるのです。

 

このように大きすぎるあきらめや絶望があると、それが蓋となって、その奥にある傷ついている気持ちを隠してしまい、そこにアクセスできないようにしてしまいます。そのため、自分が傷ついている部分を受け容れていくことができなくなってしまいます。本当の気持ちと自分とが、乖離したままの状態になるのです。

 

ですが、この方は、このあきらめや絶望があることを受け容れ、その奥にある傷ついた気持ちを見るようにされました。親を責めたり、自分を責めたりといった犠牲者の目線に留まるのではなく、親との関係の中で、実際どんな気持ちだったのか、どんなことを感じていたのかに目を向け、愛が欠落してしまった部分を受容し、満たしていくことをしていかれたのです。(具体的には、ネガティブな感情や感覚などをセラピーを使って解放していきました。)

それにより、親への憎しみが和らぎ、頭の中にフラッシュバックする親の言動が消え、誰からも奪われることのない本来の自分の力を見出し、穏やかな気持ちでいられるようになっていきました。

 

このように、ワイナリーツアーでのガイドさんの言葉から、土やぶどう、発酵の力を信じて、30年という年月、向き合ってきたワイナリーの姿勢と、どんなに絶望していたとしても、そんな自分自身の中にある力を信じてあきらめなかったクライアントさんの姿が重なりました。

そして、こうした姿勢やまなざしが、変化への可能性を開いていくのだと、改めて思い起こされ、私の中にも勇気や力が戻ってくる感覚を感じることができました。

 

深い傷つきからの絶望やあきらめがある時こそ、それらのさらに奥にある自分の中の愛を欲している部分に目を向け、声を聞き、癒していくことが、愛へと戻れる道すじであることを覚えておきたいですね。

 

 

 

 


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自然の森に学ぶ生きやすさのヒント

2023年7月30日

 

今回は、「自然の森に学ぶ生きやすさのヒント」というタイトルで書いていきたいと思います。

このテーマで書いてみたいと思った理由があります。それは、この春から「自然の森に学ぶ」ということをベースに自然農や自然栽培について学んでいるのですが、そこで教わることが、心のしくみや私たちの苦しみのしくみと全く共通する!と実感することの連続だからです。自然の森の在りようには、私たちが苦しみから解放され生きやすくなるためのヒントがいっぱい。

そんなヒントを、今回はお話ししてみたいと思います。

自然の森のしくみ

まずは、「自然の森」とは何なのでしょう? そこではどんなことが起きていているのでしょうか? それについて見ていきましょう。

「自然の森」とは

「自然の森」とは、⼈の⼿がほとんど加えられていない種々雑多の木々が生えている森林のことを言います。この自然の森には、多くの種類の生き物(植物、動物、微生物)が生きています。植物も、様々な種類があって、それぞれの背の高さや大きさなどもさまざま。太陽の光を、たくさん必要とするものも、少なくても大丈夫なものある。動物も、虫などの小動物もいれば、草食動物や肉食動物もいる。酵母、カビ、キノコに代表されるような菌類、バクテリア、アメーバーなどの微生物もいます。

 

「自然の森」にはこうした多様な生き物が生息しており、密接につながっています。

 

「自然の森」が持つ循環

図1を見てください

図1 出展:「森の食物連鎖」Acorn編集部

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森の中では、植物、動物、微生物の3つの間で、一つのサイクルが回っています。

植物を昆虫や草食動物が食べ、それらを肉食動物が食べ、その動物たちのフンや死骸、落ち葉などを微生物が分解し、その微生物が栄養素を生み出し、その栄養素を植物が吸収していく・・・という循環が起きているのです。

 

この循環の中では、植物が炭水化物(果実や葉や茎など)を生みだせば生み出すほど、それを餌とする動物たちは繁殖することができ、それによって土壌には植物の葉っぱ、倒木、動物の死骸、フンなどが与えられることになり、それらが与えられれば与えられるほど微生物が働いて、土壌に栄養素がもたらされ、植物は育ち、植物が豊かになればなるほど、さらに炭水化物の生成も行われます。

このような循環システムの中では、植物、動物、微生物がそれぞれ多様であればあるほど、循環は豊かになり、さらに安定するのです。

 

「自然の森」の循環を支える多様性

次に、図2を見てください。

図2 出展:「生態系ピラミッド」Acorn編集部

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、「生態系ピラミッド」といわれるものです。三角形の形状で示され、食われるものが食うものより多いことを表してもいます。一見、この生態系ピラミッドの最上位にいるものが一番強いものと考えがちですが、そうではありません。なぜなら、このピラミッドの中の生き物たちはこれまで見てきたように互いに密接なつながりがありますから、もし下位のものがいなくなってしまえば、たちまち上位のものも存在できなくなります。

 

この生態系ピラミッドを安定させるのに植物、動物、微生物それぞれの領域の中で多様であればあるほどよいとも言われます。これは、多様な種がいることで、もしある種類の虫や動物が病気で数が減ったとしても、別の種類の虫や動物、植物が存在することで、バランスを保ち、循環が途絶えてしまうことを防ぐことができるからです。もし単一の種しかいなかったとしたら、その種がいなくなったり、あるいは何らかの病気にかかったとしたら、それらを捕食していた上位の種にも影響が出て、最悪の場合、全て絶滅するということもあり得るでしょう。

 

さらに、多様な種がいる「自然の森」では、草が生い茂りすぎて他の植物を侵食したり、虫によって森が食べつくされてしまったり、病原菌が広がってしまったりといったようなことが起きません。(害)虫や(病原)菌が出たとしても、それらは森にとっては問題とはならず、循環を安定的に維持できるのです。それは、多様な種がいることでバランスがとれるからです。

 

このように、「自然の森」が持続可能であるのは、そこに“多様性”があるからだということがわかるかと思います。

またこのことからも、「自然の森」の中には何一つ、無駄なものはない、ということも言えるのだと思います。

 

自然の森と心のしくみ

この自然の森のありようを学んだとき、私は、私たちや心も全く同じであるなと思いました。

 

多様であるからこそ持続可能である

私が「自然の森」の話を聞いたときにまず思ったのは、多様であるからこそバランスや調整が働き、それが回復につながるのだなということです。そこから「やはり私たちの中には全てがあってよいし、不要なものがないのだな」とも思えました。

 

私たち自身は、そもそもいろいろな要素を持った存在です。いわゆるポジティブな面、ネガティブな面、受け容れることができている部分、傷ついている部分、隠しておきたいと思っている部分など様々な部分を持っているのが私たちの自然な姿なのです。

 

ところが、私たちは、不快なものや感じたくないものなどを自分の中で否定したり抑圧したりしようとします。すると、森の中で何かの植物を無くしてしまうと森の循環が崩れるように、心の中もバランスを失い、物事や相手の見え方が歪んだものになってしまうのです。

 

歪んで見えるというのは、例えば、「自分は能力がない」と自分を否定し、自分の能力を抑圧すると、周りが能力にあふれた人がいるように見えたり(それによって羨望や妬みが生じたり)、反対に自分と同じように能力がない人がいるように見えたり(それによって、嫌悪感やイライラ、怒りが生じたり)、といったことを指します(これを「投影」と言います)。

 

このように、もともと多様であるにもかかわらず、何かが抑圧されてしまうと、私たちの中でどこかに滞りとなってしまい、自然なありようから外れることになって、それが私たちの苦しみになるのだということです。ひどい時には、何らかの症状となって体に現れたり、慢性的な症状となってしまうこともあります。

 

見えないものも大事な役割を果たしている

自然の森の循環を安定的に維持することに役立っていることのひとつとして、植物が多様であることで生まれる高低差という要素があると言われています。

 

森には高木、中くらいの背の木、低木、藁、草など様々な高さの植物があるように、高さの違う(植生の多層構造)ものが共存しています。そして、背の高い木は、高い太陽のエネルギーを使い、中くらいの背の木は、中くらいの太陽光を必要とし、低い木は、少ない光でも育ちます(森の中にある植物は緑が濃いので、あまり太陽光がなくても育つようになっているそうです。)。

 

また、森は雨もうまく利用していると言われます。高低差があることで、上から順々に雨の勢いを和らげることができ、直接土に雨が降り注ぐことを防いで、土を流出させずに、地下水を作っていくことができるのだそうです。

 

このような、植物の多様性によって生まれる多層構造によって、光と水を最大限に活かすことができているという話を聞いて、これは私たちの意識の話に通じる話でもあるなと思いました。

 

多層な構造を持つ森も、空から見た時には、森の中に、中くらいの木、低い木、落ち葉があることが見えにくいのと同じで、私たちの心も階層の深い部分にあるものは見えないのです。そして、顕在意識にでてくる思いや感情ばかりに目がいき、振り回されてしまいます。

 

例えば、相手に受け入れられているかどうかが気になっている人がいたとして、その人がどうしてそうなのかの根本には、「私は空気が読むのが下手だ(だから愛されない、受け容れてもらえない)」というビリーフがあったとします。その場合、潜在意識にあるこのビリーフを捉えることができないと、顕在意識に出てくる「相手の反応が気になってしょうがない」ということだけに翻弄されてしまうことになります。そして、もともとその人がもつその人らしさを発露できないままになってしまいます。ですが、本来は、「どうして空気が読むのが下手だ」と信じてしまったのかの理由を理解することが、生きやすさにシフトさせるのです。

 

ですから、私たちも、苦しいと感じた時には、私たちの心も多層構造であって、その苦しみは普段見えていない自分の潜在意識の中にあるいろいろな気持ちやニーズから生じているということを思い出したいですね。

そうすれば、森が最大限に光と水を活かして自然なありようを持続しているように、私たちも、自分という存在を最大限に生かし、本当の意味で「生きる」ことができていきますね。ちなみに、潜在意識の中にある思いや感情に気づいていくのは難しいので、この部分をセッションではサポートしています。

 

まとめ

ここまで、自然の森の循環と多様性になぞらえながら、人の心や苦しみのしくみを見てきました。

 

私たちが苦しくなっていたり、生きづらさを感じたりしている時は、循環を妨げることが起きているサインであり、ひいては、自分の中の多様性を抑えてしまっているときと言えます。

 

ですからそんな時は、これまでお話をしてきた、

心には階層があることを思い出し、
 
何一つ不要なものはなく、何かを否定したり、排除したりしない姿勢で、
 
より心の深いところにあるものに気づいたり、受け容れていくこと 

をしていきたいですね。

 

そうすれば、そもそも私たちの中にある、有機的で調和がとれている自然の森が、さらにさらに生命力あふれたものになるでしょう。

 

 

 

 


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赦すために大切なこと

2023年7月3日

今回は、私の中で起きた「赦し」ついて、最近の体験をご紹介しながら書いてみたいと思います。

 

先日、ピアニストの友人のコンサートに行きました。

演奏とお話を交えたコンサートだったのですが、一つの作品を演奏される前に、曲紹介とともに彼女のピアノの先生の話がありました。

その先生は、生徒の間で、「レッスンに行かない時も先生が住んでいる最寄り駅の近くを通るだけで、胃が痛くなる」と言われているほど、とても厳しく、怖い方だったそうです。そして、今回演目を選ぶにあたって、久しぶりにこれから演奏する作品の譜面を取り出してきたところ、そこには、この先生の直筆のコメントなどが残っていて、当時のことを思い出した、という話でした。

 

この話を聞いて、私も自分が教わったピアノの先生のことを思い出しました。

 

私は小学校1年から高校2年までピアノを習っていました。こういうと、「相当弾けるだろう」と思われるかもしれないのですが、そんなことはなく、私にとって、ピアノといえば、「苦行」。この一言で表すことができるほど嫌な思い出しかないものなのです。

なぜなら、とにかく楽しくなかった。先生の指導方法は、暗譜をして、指の形もきっちりとして演奏しないと注意され、とにかく全部が完璧でないと絶対に次に進めない、というものでした。私は、音楽の道を目指していたわけではありませんでした。「ちょっと弾けるようになったらいいな」ぐらいで通っていた私にとっては、レッスンは苦痛でしかなく、「失敗しないように」という思いばかりが先行するので、「演奏している」という経験や演奏する楽しみを味わうことができませんでした。

結果として、曲そのものが体や肚に落ちていませんから、作品が自分のものとして(記憶としても)残りませんでした。大げさに言っているのではなく、あんなに長く続けたのに、「これだけは弾ける」というものがひとつも残らなかったのです。

 

その後、大学受験を理由に、高2でやめたのですが、それ以降、私のピアノの蓋は閉じられたままになりました。

 

さて、コンサートの話に戻ります。

彼女が、先生がいかに厳しかったかの話の最後に、「あれも(あの先生の指導も)愛だったのかなと、こうして何年も経って思えるようになった」と言いました。

 

この言葉を聞いた時に、「ああ、彼女はもう先生を赦しているんだな」と思いました。そして、ふと「私も先生のことを赦せるとしたらどうだろうか」という思いがよぎったのです。同時にそんな発想がでてきたことに少し驚きもしました。ですが、実際「赦す」ということをイメージすると、ふわっと体が軽くなる感覚がありました。(ここでも我ながらちょっとびっくりです。)

 

そして、自分の中の声を探ってみました。すると、そこにあったのは、「自分の演奏を通じて、楽器、曲、音を楽しむという経験がしたかった」といったものでした。

それまで私は、「ピアノの前に座ると体が固まるのはあの先生のせいだ」、「何も実にならなかった時間は自分の人生からなかったことにしたい」と、怒りやあきらめにも近い気持ちがあったので、当然「許せない!」という思いが出てくるものだと思っていました。ところが、よく探ってみると、単純に「やっていて楽しい!」と思える瞬間がなかったことが、悔しい、残念だ、というものだったのです。上達するとか、上手く弾けることよりも、です。

 

自分の心の声がわかって、それを言葉にすると、先生やピアノの犠牲者だと思い込んでいたところから離れることできて、「犠牲者である私」に固執して力が入っていた部分が和らぎました。そして、視野も開けた感じがして、色々と当時の実際のところが見えてもきました。

例えば、私が習っていた時代は、昭和50年代。先生は、昭和30年代、40年代を現役ばりばりで過ごした方だったと思うのですが、先生自身が演奏家を目指していない子供たちへの指導方法にあまり長けていなかっただけなのではないかとか(特に自分が自然とできることって、できない人がどんなところで困っているのかが、わからなかったりしがちです)、母は母で、自分の恩師ということもあり、なんらかの遠慮や忖度が働いていたのかもしれないとか、私も母に気をつかって、上達しない分、せめてレッスンを続けることで母の面目を保とうと、やめたいとはなかなか言い出せなかったとか。あの頃、いろいろと作用していたであろう要素に客観的に思いを巡らせることができるのです。そして、結局はだれも悪くなかったのだな、ということもわかってきます。あの時、あの時代、あの環境の中で、各々が各々の中で勝手に想像したり、解釈したりして、物事が起き、関係性が動いていただけなのだな、と。

 

こんな風に見えたときに、先生やピアノ、母を責め続けることを、もう手放しても大丈夫かもと思えたのです。さらに、「自分の演奏を通じて、楽器、曲、音を楽しむ」という経験をできなかった自分を責めていたことにも気づき、それももう手放せると感じました。あの時は楽しむことができなかったのだけれども、今は、他のことを通してその経験もできている。後悔や恨みのメガネをはずせば、逆にもっと「楽しむという経験」が経験できるな、とも思えました。だから、そんな自分も赦そうと。

そしてさらに私の体が軽くなるのを感じました。

 

 

以上が、友人の「厳しかった先生」の話をきっかけに、私の中の本当の声に気づいたことで起きた赦しのお話です。彼女が弾くショパンの調べとともに、赦しが私の中に自由という風をふわりと吹き込んでくれる体験となりました。

 

 

 

 


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本質的な癒しについて ―(2)本当の自分に気づくことと本質的な癒しとの関係―

2023年5月15日

前回は、強い自己否定やそこから発症したパニック障害で苦しんだ私が、感情や感覚、思いと向き合っていく中で、全ては心の中にある感情や感覚、思いの投影であること、そしてこの感情―感覚―思いは実体がなく、本当の自分(真の自己)とは全く関係がないのだという理解をしていったことによって、症状が劇的に良くなっていったことをご紹介しました。

 

第2回目の今回は、このような「本当の自分」に気づいていくというプロセスが、自分の悩みや症状の癒しをしていくことと、どうつながっているのかについてお話してみたいと思います。

 

本当の自分とは

それでは、「本当の自分」とはどんなものなのか、私たちが見る「夢」や、「映画館のスクリーンとその上に映し出されている映画」を例にしながら、見ていきましょう。

 

例えば、夢を見ている間は、その夢の中で走ったり、もがいたり、楽しく過ごしたりして、その物語を生きますね。恐竜に食べられそうになっている夢、敵に追われて崖まで追いつめられている夢を見た場合、これが現実だとしたら大変なことです。ですが、目が覚めると、それがどんなに怖い夢であったとしても、夢をみていたとわかってホッとします。それは、「現実には何も変化はなく夢をみていたのだ」とわかっているからです。

 

これを、映画館のスクリーンとその上に映し出される映画に例えてみると、

私たちが見ている夢とはスクリーンに映し出される映画であり、

夢をみていたのだとわかっている私たちはスクリーンとなります。映し出される映画は都度変わるのですが、スクリーンは映画の内容によって破けたり、燃えたりなどせず、一定で何も変わりません。

 

これを、前回ご紹介したヨガ哲学の言葉に当てはめると、

ヨガ哲学の言葉
「私たちが普段『自分』と思っているのは一体何なのか? 肉体、呼吸、五感、心、経験が自分なのか?」という問いを投げかけ、
 
この問いに対して、
 
「これらはすべて変わりゆく物であって、本当の自分ではなく、本当の自分は、これらの変化を観て、これらを経験する者。変化する物の中にありながら、どんなことがあっても変化しない存在が自分自身。変化する物のすべてを、本当の私だけが、変化することなく観ている」(「やさしく学ぶYOGA哲学 ヨガスートラ」向井田みお著(P61))と「本当の自分」について説いている

 

「変わりゆくもの、本当の自分ではないもの」が”夢”や”スクリーンに映し出される映画”ということになり、

「これらの変化を観て、これらを経験する者。変化する物の中にありながら、どんなことがあっても変化しないもの」「変化するもの全てを見ている変化しないもの」が”夢を見ていたのだとわかっていること”や”スクリーンそのもの”ということになり、それが「本当の自分」ということになります。

 

本当の自分に気づくことと本質的な癒しとの関係

「自分(普段の私たち)」や「自分が作り出す物語」は、感情や感覚、思いの連動と集積によって成り立っています。これらは、変化したり、変容したり、消えたりするという性質のものである以上、夢や映画と同じなのです。それが、どんな自分や物語であったとしてもです。つまりそれが、うまくいっていない自分や苦しい物語だろうと、逆に、うまくいっている自分や楽しい物語だろうとも、です

 

エクハルト・トールが、「自分が何者でないかを見きわめるなかから、自ずと自分は何者かという現実が立ち現れる」(『ニューアース』エクハルト・トール著(p37))と言っているように、普段の私たちが実体性がないとわかればわかるほど、本当の自分(真の自己)は、スクリーンである変わらないものである、という理解が現れてきます。

 

これが理解できてきたときに、私の中で、「私という物語を生きる」ことに、いい意味で力を抜くことができたのです。「諸行無常」という言葉がありますが、あらゆるものが移り変わっていくという、そのありように抗わずに、任せてよいのだなといった信頼や、そこからの安心感に包まれました。

また裏を返せば、自分がいかに本来は実体がない夢や映画という物語を信じ、その物語をよい物語にしようとエネルギーを費やしてきたのか、ということにも気づかされ、それ自体が、私を私たらしめているものなのだなという自分という存在への理解やその健気さに労りの気持ちも生まれました。

 

こういった、物語(夢や映画)は本当の自分ではなく、本当には何も起きておらず、本当の自分はスクリーン(変化することなくただ見て、それらを経験するもの)の方だということに気づくことで訪れた癒しは、それまでにない深い癒しとなりました。それを「本質的な癒し」と呼ぶならば、それまで求めていた癒しは、言ってみれば「一般的な癒し」と言えるかもしれません。

一般的な癒しは(これはこれでとても大切なものでもあるのですが)、物語(夢や映画)をいわゆるネガティブなものからポジティブなものへと変えることで得られる癒しと言えるかもしれません。

そこでは、物語(夢や映画)はポジティブに変わったとしても、それはやはり「夢」であり「スクリーンに映った映画」であって、いつまたネガティブなストーリーが上映されるかもしれません。変わらないもの、変化しないものがあるのだということに理解や実感がないと、変化することや変わるということは脅威となります。そのため、普段の私たちは、たとえ楽しい物語(夢)を生きていたとしても、いつまた物語(夢や映画)が変わってしまうかもわからない、といった欠如感や不安、怖れというものを感じてしまうのです。時にはよい物語を維持しようと執着し、それが苦しみにもなってしまうこともあるでしょう。つまり、決して、絶対的な満足感、安心感、信頼、充足感を得ることはできないのです。

 

このように、私にとって、本当の自分(真の自己)に気づいていくというプロセスは、私がずっと持ち続けてきた「本当に安心できるということはどういうことなのだろう」と問いに対しての答えをくれるものでもありましたし、物語(夢や映画)を変えるだけの癒しとは違う、より深い安堵や絶対的な安心感、癒しをもたらしてくれたものになったということです。

 

最後に

ここまで、18歳から約20年余りにわたる私の苦しみの癒しのプロセスをご紹介しながら、より深い癒しを知ったことですごく楽になれたこと、そしてその深い癒しとは何かについてお話をしてきました。

 

私は、普段はもちろん思考や解釈、イメージなどと同化して私(物語、夢、映画)を生きていますが、これからも自身や自身の物語を構成している感情、感覚、思いの集積などの解放、解体を通して、本質や絶対的な安心の場に体験的に触れていくということを続けていきたいと思っています。

 

皆さんも頭の理解のレベルでもよいので、時々、思考や解釈、イメージ、物語を信じず、脇に置いて、本当の自分とはスクリーンの方であるということを思い出すことを意識してみるのはどうでしょうか?

 

なぜなら、この「本当の自分」は、無条件の愛、受容、慈しみ、信頼、英知、静寂、愛ある力、生命そのものなので、それを意識することで、いつもうっすらとある欠如感や不安、怖れを埋めようとする自動反応的な動きから自身を休ませることができますし、このような動きに巻き込まれていなければいないほど、本質や絶対的な安心の場とは切り離されていないのだなという感覚が持ちやすくなるからです。

そしてまた、自分という存在の実体性がないことがわかることで、逆に、私という存在、物語(夢)を力を抜いてもっともっと楽しむこともできるのではないかと思います。

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

 

 

 

 


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本質的な癒しについて ―(1)私自身がパニック障害を克服するまでー

2023年5月7日

今回は、「本質的な癒し」について、2回に分けて書いてみたいと思います。

 

強い自己否定やそこから発症したパニック障害からの不安感や恐怖感に苦しんだ時間が長かった私にとって、「癒し」というものや「本当に安心できるということはどういうことなのだろう」という問いは、いつも身近にあり、この問いをしながら、自分の学びや癒しに取り組んできました。

 

そうして取り組む中で、単なる「癒し」ではなく「本質的な癒し」とは何なのかを考えるようにもなりました。

第1回目の今回は、私が「本質的な癒し」を知って、症状が劇的に良くなっていったプロセスをご紹介します。そして第2回目で、「本質的な癒し」が、自分の悩みや症状の癒しをしていくことと、どうつながっているのかを話してみたいと思います。

 

自己否定の始まり

私が初めてのパニック発作を経験したのは、27歳の時でした。それ以降、予期不安や恐怖感に悩まされる状態になったのですが、このパニック発作やパニック障害を発症することに影響があったのは、私が自分を肯定するということができない時間を18歳くらいから過ごしたことにあると思っています。それ以来「こんな自分はだめだ」とか「自分は何をやってもうまくいかない、ダメ人間だ」といった自己卑下と、劣等感で苦しみながら生きていたのです。

 

きっかけは大学入学でした。志望した大学に入ったにもかかわらず、そこで出会うクラスメイト、同学年の学生たちが「みんなそれぞれの価値観やそれに基づいた目的をもって生きている」ように見えて、そのことに衝撃を受けたのです。

 

自分の捉え方で物事を見てしまう「投影」

どうしてこのように映ったのでしょうか?

私は地方の進学校に通っていたのですが、高校での学びはいつの間にか、大学に合格するための勉強という位置づけになってしまいました。学びが、手段から目的に変わってしまい、大学合格がいつの間にか「ゴール」になってしまっていたのです。そうやって過ごす中で、自分がどう生きたいのかといったことを完全に見失っていきました。ですから、入学すると、私は何をしたらよいのかが全くわからない状態になってしまいました。それはまるで、コンパスを持たない舟が、急に大学生活という大海原に放り出されたような感じでした。

そんな私の目に飛び込んでくるのは、ちゃんと目的や将来の展望をもっている友人たちの姿でした。たまたま出会った人たちがそういう人たちだった、ということがあるのかもしれないですが、コンパスを失っている私にとっては、彼らの姿は自分とは真反対に映ってしまうのです。

 

当時は心の仕組みについて知らないので、それが自分の心の内の投影である(自分の捉え方で物事を見てしまうという仕組み)とは思ってもみません。目的がなくなり、どう進めばよいのかがわからなくなっている私には、周りの人たちがちゃんと目的や意思をもっている人だ、と映り、それが事実であるということになってしまうのです。

 

そしてそのことは、自分に衝撃を与え、これまでの自分の世界観や自分という存在に対しての自信を失わせていきました。自分のことがちっぽけに思え、自分の存在の小ささを思っていたたまれなくなり、「こんな自分はだめだ」「何をしても無理だ」といった自己否定へとどんどんはまりこんでいくこととなりました。

 

抱えきれないネガティブな感情や感覚、思いを抑圧するために使う「防衛」と「攻撃」

今ならば、友人たちの姿に触れたときのショックや衝撃、恥の気持ちなどが、自己否定への引き金となったと理解でき、そのショックや衝撃を受けた際の感情などを解放したり、さらには、そもそも手段が目的に変わってしまった理由(自分がどう生きたいのかといった意思やビジョンをもちにくくなっていた理由)を探って癒したりすることができたと思います。ですが、当時はそのようなことは全く知らなかったので、自分の目に映ったものを事実と信じ込んで、ショックや恥の気持ちなどを抑えておかなければなりませんでした。こうしたときに私たちの心は、防衛しながら攻撃するという仕組みが働くのですが、私の場合、攻撃の矛先が特に自分に対して向いたわけです。「自分がダメだからだ」という風にです。

 

そして大学入学以降、この「私はダメな人間」という思いを信じこみ、周りはできる人たちであふれているようにしか見えず、私は劣等感まみれになって生きることになっていきました。そして、この劣等感をさらになんとかするために、何かスキルを身につけようとあがいてみたり、でもその一方では、劣等感が強くあるので、何かにチャレンジするということも難しく、まさに八方ふさがりの状態で苦しんでいました。

 

「私はダメな人間」という思いから、様々なネガティブな思いの糸が出てきて、それらの糸が絡まりに絡まって、もはやほどけない状態になっていました。「私はダメな人間だ」というネガティブな思考を信じ込めばこむほど、その世界観が事実にしか見えなくなってしまう、そんな状態にあったということです。

 

そんな状態を約10年間続ける中で、パニック発作が起きました。それからは発作が起きた電車などの場所が怖くなってしまい、「ここに閉じ込められたらどうしよう」などと不安が襲ってきて、生活も制限されるようになりました。そして、ここでもそんな自分を責め続けるのです。

 

逆に言うと、それほど苦しい状態になっていても、どうやってこの苦しみから解放されるのかの術がわからずにいたということでもあります。私は「私はダメな人間」という思いを信じ切って、パニック障害からの不安感を抱えながらもそれからも約15年間を過ごすのです。

 

苦しみを生み出す「本当の原因」

そんな私に変化をもたらしたものは、苦しみを生み出す本当の原因を自分の潜在意識の中に探って、感情や感覚、思いを解放したり、変容をさせたりしていく心理カウンセリングの手法でした。
(これは私の現在のセッションでも採用している手法でもあり、これまでの記事でもご紹介している、気づきの問いかけとセラピーを組み合わせたOADという手法になります。)

そこに至るまでには、長い道のりがありました。

初めのうちは、自分でも自分の状態をなんとかしたいと、本を探して読んでみたり、リラックスできるようにヒーリングを受けてみたりしました。でも、症状が根本的に良くなることはありませんでした。

その後、家族の海外留学に伴い、イギリスに行くことになりました。この時も状態は改善していないので、エジンバラ大学で「カウンセリング研究」という修士コースに通い学問的な角度からも学んでみたりしました。けれども、どんなに知識を入れても、やはり症状は良くなることはありませんでした。

 

そんな中、いろいろ調べるうちに、出会ったのが、私の師匠である溝口あゆかさんのブログでした。そこから、私は溝口さんが主宰される講座に参加するようになりました。

そこで知ったのは、私たちの心の仕組みについてでした。具体的には、先にも書いた「私たちは自分の捉え方で物事を見ている」ということや、その捉え方に影響を与えるものはビリーフやセルフイメージであり、それらは潜在意識にあって気づいていないのだということでした。

そして、こうした仕組みを理解できればできるほど、ビリーフやセルフイメージを自身の心に探ることができるということや感情解放のセラピーを用いて癒すことができるということでした。

それは、私の中にあった、心とは「捕らえどころのない扱いにくいもの」という認識を、悩みを生み出す元までたどることもできる「構造的で論理的に把握ができるもの」という新しい認識へと変えてくれました。

そして、自分のことをわかっていると思っていたけれども、本当は何も知らないのだということに衝撃を受けるとともに、この心の仕組みを理解することが、本当の意味でもっと自分をわかっていけることにつながると思えたのです。

 

そうしてわかったことは、ここまででおわかりのように、私のパニック障害の「本当の原因」は、大学受験を目的化してしまうことと関係がある「自分がどう生きたいのかがわからないままになってしまう」ところだということでした。ここが違っていれば、大学入学時の経験も違ったものになったでしょうし、そこからの自己否定にも苦しまなかったでしょうから。

 

そしてこれは私の幼少期の親との関係や家庭での経験と関わっていました。ここでは詳細は割愛しますが、私は、ピリピリとした緊張感のある雰囲気の家庭で育ったので、人の顔色を見たり、自分がどうふるまえば家族の関係が安定するのかということにばかりに注意がいく子でした。いつも自分よりも相手の気持ちを優先していたのです。ですから、自分がどうふるまいたいか、どう生きたいかという発想をもつことがわかりにくい状態になっていたと思います。そんな私にとって、外からわかりやすい指標や目的が与えられ、その結果を出すと周りが喜ぶ(例えば成績が上がると親が喜ぶなど)ということがあると、ますます自分が何をしたいのかがわからないまま、与えられたゴールに向かってただ突き進むということになっていたのです。

 

ですので、私に必要だったのは、自分自身がどうしたいのかを決めてもいいと思えることや、自分にはそれができると信じられる自己効力感などの力を取り戻していくことだったのです。そのために大事なことは、自分よりも人の気持ちを優先してきた自分自身に理解を示しつつ、私の中に刷り込まれていた「自分の気持ちを優先してしまったら愛されなくなってしまう」といった思いから自分を自由にしていくことであり、そのためにこの思いに付随する怖れや不安感などの感情を解放していくことでした。

 

向き合えば向き合うほどわかったこと~投影~

このように感情や感覚、思いと向きあい、解放していく中で、「自分の気持ちを優先してしまったら愛されなくなるのでは」という思いの真実味が薄れていきました。それに伴って、状況への別の視点が自然に出てくるなど認知の変化も起きてきました。例えば、私の場合、「大人たちには大人たちなりの事情があったのかも」とか、「私がどうだからかということとは無関係なのかも」といったようにです。

このような認知の変化によって、気づけば、自己否定や自分責めにエネルギーを使うことがなくなっていました。また、パニック障害の症状である予期不安や乗り物への恐怖、広場恐怖に苦しめられることもなくなっていきました。

 

さらに、感情や感覚、思いと向き合えば向き合うほど、認知が自然と変化していきますので、いかに私という存在が、感情―感覚―思いとの連動であり、かつ、その集積で成り立っているのかということや、私の世界観というものはそれらを通して、作られているのだということに改めて気づかされていきました。

つまり、「今自分が見ている世界は、自分の感情―感覚―思いが投影されたものなのだ」という私たちの心の作用について、実感を伴って理解が進んでいきました。それは例えば、自分の中にさびしさがあれば、道端の花が一人ぼっちで咲いているように見える、といった風に、全ては自分の心の投影であって、そこには事実はない、という理解でもありました。

 

向き合えば向き合うほどわかったこと~変化するものと変化しないもの「本当の自分」~

また、一方で、「感情や感覚、思いというのは、解放されるのだな」という経験をすればするほど、それらの「変化する」という性質がわかってもきます。つまり、変化するものである以上、それらに実体性というものがないのだ、ということも実感していくことになりました。

 

そして、こうした、【私たちの存在自体は、感情や感覚、思いとの連動で動き、それらの集積で成り立っている】ということと、【これらの感情や感覚、思いに実体性がない】ということから実感したことは、私たちの存在自体が、全く実体性がないものなのだということでした。このことが実感を伴って理解できていったのです。

 

そして、本当の自分(真の自己)とは、これらの感情や感覚、思いとは全く関係がないのだという理解も並行して立ち上がってきたのです。

 

これは例えば、ヨガ哲学の中で、

 

「私たちが普段『自分』と思っているのは一体何なのか? 肉体、呼吸、五感、心、経験が自分なのか?」という問いを投げかけ、この問いに対して、

 

「これらはすべて変わりゆく物であって、本当の自分ではなく、本当の自分は、これらの変化を観て、これらを経験する者。変化する物の中にありながら、どんなことがあっても変化しない存在が自分自身。変化する物のすべてを、本当の私だけが、変化することなく観ている」(「やさしく学ぶYOGA哲学 ヨガスートラ」向井田みお著(P61))と「本当の自分」について説いているのですが、このように言われていることが、自分の感情や感覚、思いと向き合ったり、解放されていくという経験の中で、体験と実感を伴ってわかっていったのです。

 

 

ここまで私がどのように強い自己否定やパニック障害の症状からよくなっていったかの過程についてご紹介をしてきました。

次の回では、本当の自分に気づくことがどう本質的な癒しとなるのか、その関係についてお話をしていきたいと思います。

 

「本質的な癒しについてー(2)本当の自分に気づくことと本質的な癒しとの関係」につづく

 

 

 

 


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変わりたい、早くよくなりたいのに変化が起きないとき~無意識の抵抗について~ (後編)

2023年2月20日

前回は、無意識の抵抗が起きるとき、私たちの心ではどのようなことが起きているのかについて見てきました。

無意識の抵抗を手放していくことと関連がある、ネガティブな自分像(セルフイメージ)へのアプローチの仕方について書いていきたいと思います。

 

特に、この自分像は、潜在意識のレベルにあるため、普段は気づいていません。そのような自分像は、どのように見つけていけばよいのかから始めていきましょう。

 

どうやって、自分像(セルフイメージ)を見つけるの?

(実際は、OADの気づきの問いかけを使ったセッションを利用されることをお勧めしますが、ざっくりとした説明をしますね)

私たちの思いや感情、感覚は、意識の中で階層となって存在しています。潜在意識にある思いを探っていくには、顕在意識にある思いや感情から、段階を追って下りていくのです。

 

階層を下りていくために使う問いかけがあります。
それは、現状を変えたら、現状から抜け出すと、何がまずいのだろう?というものです。
次のように問いかけてみるのです。

 

・それをやると何がまずいの?
・やらないと何がまずいの?
・治ると何がまずいの?
・よくなると何がまずいの?

 

例えば、先に挙げた人の例ですと、

人の中に交わっていくことにしたら、何がまずいの?と問いかけます。
頭で考えずに体の感覚もよく感じながら問うことが大切です。

 

そうすると、これまで書いてきているように、

「人と交わっていくと、相手にどう思われるかという不安だ」とか、「受けいれてもらえるかわからないから怖い」といった思いが出てきます。

 

ほかの例ですと、例えば、

 

治ってしまったら、家族からのケアを受けられなくなってしまう

不倫関係をやめてしまったら、誰かに受け容れられているという感覚が感じられなくなる

お酒をやめてしまったら、焦りや不安感に直面しなければならなくなる

 

などといった思い(声)がでてくるのです。思いには感情や感覚も伴いますから不安感や、ソワソワした感覚も伴います。

 

 

このような思いを生む自分像を見つけよう

ここまででてきたら、次は、そういう思いを生むのはどんな自分だからだろうと問うのです。

なんらかの自分像(セルフイメージ)があるから、こういった思いや感情、感覚が生まれているからです。

 

具体的には、次のような問いかけをします。

 

・「どんな自分だから、相手にどう思われるかという不安を持つの?」
・「どんな自分だから、相手から受け入れられるかが心配なの?」

そこで返ってくる答えが自分像(セルフイメージ)です。

この人の場合は、例ですが、「自分はつまらないから」という風に答えがでてくるのです。

 

他の例の場合、

・「どんな自分だから、家族からのケアが必要なの?」

・「どんな自分だから、受け容れられているという感覚がほしいの?」

・「どんな自分だから、焦りや不安感に直面することがまずいの?怖いと思うの?」

 

答えの例として(あくまで例です。)

・「一人で立っていられないような自信のない弱い私だから」

・「だれからも愛されない私だから」

・「空虚感で一杯の空っぽの私だから」

 

自分像(セルフイメージ)が見つかったら、どうしたこの思いを信じたのかの理由を探ろう

問いによって見つかった自分像は、一見とても真実味があるように感じられます。しかし、これまでの記事でも書いてきていますが、何らかの思いや感情、感覚に真実味があるのは、それが作られた体験(トラウマ、刷り込みなども含む)とその体験で経験した感情、感覚、思いがあるからです。ですから、トラウマなどの体験で経験した感情、感覚、思いをきちんと解放していけば、真実味は失われるのです。

 

この人の例ですと、実際のセッションでは、「自分はつまらない」と信じている私の感情などをよく感じていきます。そうすると、自然とこの思いを形成した経験、記憶というものが出てきます。例えば、親がいつも姉の話には耳を傾けてくれていたけれど、自分の話はあまり聞いてくれなかったなどの記憶などが出てくるのです。この辛い経験があるために「私はつまらないんだ」と信じた、ということです。

 

具体的には、EFTやマトリックスリインプリンティングといったセラピーを使ってあまり親に耳を傾けてもらえなかった自分がどのような感情や感覚、思いを感じていたのかよく(自身に問いかけて)思い出して感じ、そこで感じた寂しさや、怒りや、悲しさ、孤独感や不安感などを解放をしていきます。

 

不思議なことに感情や感覚、思いがきちんと解放されると、親が単純に忙しかったからなのかもしれない、とか、実は自分の話も聞いてくれていた記憶も浮かんできたりして、姉ばかりではなかったのかもしれない、といったように状況へのとらえ方が変わり、私がこれこれこうだったからだと自分のせいにしなくてよくなる、という風に変わるのです。

 

このように、「自分はつまらない」という自分像(セルフイメージ)を信じさせた感情や感覚を解放するとその真実味がなくなり、この自分像(セルフイメージ)自体から自由になっていけるのです。それはまるで、「柳の影を幽霊と勘違いして怯えていたのか!」という発見によって、ほっとしたり、自分に力が戻ってくるような体験と同じようなものです。

 

 

ここまで、無意識の抵抗を手放すための、ネガティブな自分像(セルフイメージ)へのアプローチの仕方について書いてきました。

 

 

まとめ

ネガティブな自分像(セルフイメージ)から解放されれば、そこからはネガティブな思いや感情(不安や怖れなど)も生まれません。ですから、それらを避けるための何かも必要がありません。これが、私たちが本当に求めている本当の安心、安全でしょう。そしてこの本当の安心、安全の感覚から、これについてはどうしたい?これについてはどう対応ができるだろう?といった風にシンプルに目の前の物事に向き合うことができるのです。そこでの選択や判断は、自然で、無理がなく、自分らしさが表れたものになるでしょう。

 

本当はやりたいのにできない、やらない、またはやめたいのにやめられないという時、その停滞感に苦しむのではなく、なぜやれないのか、なぜやってしまうのかの本当の理由を知ることが大切なのです。なぜなら理由が理解できたところに、必ず本当の安心、安全があるのですから。

 

 

 

 


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変わりたい、早くよくなりたいのに変化が起きないとき~無意識の抵抗について~(前編)

2023年2月12日

今回は2回に分けて「無意識の抵抗」について書いていきたいと思います。

 

意識上では、今の状態から抜け出したい、やった方がいい(やめた方がいい)、慢性の症状からよくなりたいと思ってはいるのですが、変化を起こせないときがあります。そんな時は、「無意識の抵抗」が働いている可能性があります。

カウンセリングやセラピーを何度受けても、変化を感じられない、よくならないという場合も、この抵抗が働いていることが考えられます。

 

 

「無意識の抵抗が働いている状態」とは、言ってみれば、アクセルを踏みながら、ブレーキを踏んでいるような状態で、現状に満足していないのだけれども、たとえネガティブな行動や状態であったとしてもそれを手放すことができず、そこに留まってしまう状態を指します。

 

2回にわたって、抵抗が働いているときの例を出しながら、無意識の抵抗が起きるしくみを解説するとともに、その上で、抵抗を緩めるのにどうしたらいいのかについても書いていきたいと思います。

 

1回目のこの記事では、無意識の抵抗が起きるしくみを解説していきます。

 

無意識の抵抗の例

抵抗の例には、次のようなものがあります。

・やればいいとわかっているのに、取り掛かれない、できない

・お酒やスマホ、過食、ゲーム、ギャンブルなどを、やめたいと思っているけれどもやめられない

・物事や人間関係が上手くいっているのに、やめたくなったり、壊したくなったりする

・別れた方がよいと思っているのに、関係を絶つことができない

・パートナーができないと悩んでいるけれども、相手に拒絶されるのは怖いので、寂しいけれども人と交わらずに一人でいることを選択してしまう

・引きこもりから社会復帰したいと思っているけれども、抜け出せない

・転職をしたいけれども、自分の能力に自信がないと感じ、現状に留まり続けてしまう

・腰痛、頭痛などの慢性の身体の不調、パニック障害、強迫性障害、鬱など、長年にわたってもっている症状から改善したいと思うが、よくならない

 

このような無意識の抵抗が起きるとき、私たちの心ではどのようなことが起きているのでしょうか? また無意識の抵抗をどのように緩めていけばよいのでしょうか?

 

無意識の抵抗が起きるしくみ

私たちには、根源的な死への怖れ(食べていけるか/他者から受け入れてもらえるかの怖れ)があります。そのため、潜在意識のレベルで、常に、「生き残り」が大切となり、生き残りを高めてくれるものに安心や安全を感じるという性質があります 。常にどちらがより安心で安全か、どちらがより生き残りの確率を高めてくれるか、という判断を走らせているのです。この性質があるので、ネガティブな思いや感情がわいたときに、安心や安全を与えてくれる何かが必要になります。安心、安全を得られるのは何か?を探すのです。

そして、それがたとえネガティブな行動や思いであっても、そこにより安心や安全を見出すと、その行動や思いを持ち続けたり、選択し続けるということが起きるのです。これが無意識の抵抗です。

 

 

例えば、先に挙げたパートナーができないと悩んでいるけれども、相手に拒絶されるのは怖いので、寂しいけれども人と交わらずに一人でいることを選択してしまう、という例の場合、

 

「一人でいる」というのは、寂しさなどを引き起こすのですが、一方で、「人と交わっていくこと」は、相手にどう思われるかという不安や、受けいれてもらえるだろうかといった怖れも引き起こします。安心、安全を求める性質がある私たちは、この不安や怖れを感じなくてすむ安心、安全を与えてくれるものは何だろうと探し始めるのです。この時に「一人でいる」ことに、より安心安全を感じた場合、この状態を選択する、ということです。

 

そのために、頭ではパートナーがいないと悩んでいても、一人でいる、人と積極的に交わらない、人を避けるということを選択しつづける、ということです。

 

この方の頭と心の中で繰り広げられる会話、行動、顕在意識での悩みは次のようなものです。

 

☆頭と心の中で繰り広げられる会話:
「人と交わっていく時に感じる感情、感覚、思いを感じるのは不快、怖い」
「これを避けられるものは何だろう?」
「そうだ、できるだけ人と関わらないことだ!」
「たとえ人と関わらないことで寂しさを感じるとしても、人と交わっていく時に感じる不安や怖れを感じなくてすむのなら、人と関わらない方がより安心、安全だ」
 
☆表層にでてくる行動:一人でいる、積極的な関わり方をしない、避ける、相手が積極的だと離れたくなる
 
☆顕在意識での悩み:パートナーができない。パートナーがほしい。

 

このように、より安心、安全を求める性質がある私たちは、ネガティブな行動や思いであっても、その行動や思いによって、ネガティブな思いや感情、感覚を避けられるというメリットを見出すと、その行動や思いを手放すことが難しくなったり、留まり続けてしまうのです。

つまり、「無意識の抵抗」はネガティブな思いや感情、感覚を避けるために起きるということです。それほど、ネガティブな思いや感情、感覚を避けたいと思っているということでもありますね。

 

では、それほど避けたいと思っているネガティブな思いや感情、感覚はどこから生まれるのでしょうか?

 

潜在意識にあるセルフイメージから生み出されるネガティブな思いや感情、感覚

私たちの顕在意識上で感じる思いや感情は、それがポジティブであっても、ネガティブであっても、いつも潜在意識レベルにある自分像(セルフイメージ)と関係し、その自分像(セルフイメージ)から生まれています。潜在意識レベルにある自分像(セルフイメージ)とは、「自分は〇〇(だから)」という思いのことです。

この人は、人と交わっていく際に相手とうまくやっていけるだろうか、受けいれてもらえるだろうかといった不安や怖れを感じています。これらのネガティブな感情は、この人の潜在意識にあるなんらかのネガティブな自分像(セルフイメージ)から生まれているのです。例えば、「自分はつまらない」とか、「自分は学歴がない」とか、「自分は気が利かない」とか、といったものです。

 

例えばこの人に「自分はつまらない」というセルフイメージがあるとしましょう。このセルフイメージがあると、人と交わっていくことに自信は持てないでしょう。そのために、相手とうまくやっていけるだろうか、受けいれてもらえるだろうか、という不安や怖れが生み出されやすくなります。

 

このように、無意識の抵抗によって避けたいと思うネガティブな思いや感情、感覚は、ネガティブな自分像(セルフイメージ)から生まれており、逆に言えば、このネガティブな自分像(セルフイメージ)がなければ、無意識の抵抗をする必要がないということです。

 

ですので、無意識の抵抗を手放すには、このネガティブな自分像(セルフイメージ)にアプローチしていくことが必要になります。

 

ちなみに、無意識の抵抗を持ち続けた場合、この抵抗によってネガティブな思いや感情、感覚を避けることができたとしても、「自分はつまらない」といった思い(セルフイメージ)がある限り、ネガティブな思いや感情、感覚は生まれ続けてしまいます。これは、「人とできるだけ交わらない」と決め、そこに一旦安心感を得られたと感じたとしても、実際には、他者に対して羨ましさがでたり、自分に対して情けなさを感じたりして、「パートナーができない」と悩み、苦しむことからは逃れられないことになります。 ですので、抵抗によって一旦得られる安心、安全は、あくまで「まやかしの安全」なのです。

 

「まやかしの安全」ではなく、本当の安心、安全を感じるためには、ネガティブな自分像(セルフイメージ)にアプローチすることが必要なのです。

 

それではどのように「自分はつまらない」といったような自分像(セルフイメージ)にアプローチしていけばよいのでしょうか?
特に、この自分像は、潜在意識のレベルにあるため、普段は気づいていません。そのような自分像は、どのように見つけていけばよいのでしょうか?

 

次回は、どのように自分像を見つけていけばよいのかから解説を始めて、ネガティブな自分像(セルフイメージ)へのアプローチについて書いていきたいと思います。

 

 

 

 


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トラウマについて~生きづらさから解放されて自分を愛する力を取り戻すために~(後編)

2022年12月29日

前回は、トラウマがどのようにできるのか、そしてそのトラウマがどうして残り続けるのかについてそのメカニズムを見てきました。

今回は、「トラウマ記憶」としてとどまることでどのような影響があるのかについて理解するとともに、前回のメカニズムを踏まえて、どのようにトラウマから回復をしていけばよいのかについてみていきましょう。

 

トラウマ記憶が留まることの影響

トラウマは、自分自身のとらえ方や世界の見え方に影響を与えます。前回みてきたような様々な要素や因子によって、私たちは強い恐怖感、どうにもならないことによる無力感や孤立感、分離感を感じると、それらから自分を守るために3つのFのFreeze 反応を起こし、それらを体の中に留めます。

 

私たちは、元々、感情―感覚―思いを通して、自分や世界をとらえるというしくみを持っているので、留めてしまった感情―感覚―思いが解放されない限り、私たちは自分のことを無力な小さな存在と感じたり、誰からも助けてもらえない存在だと思ったり、世界や社会は怖いところだと感じたりという風に、自分自身や世界へのとらえ方を変えてゆがめてしまうのです。→過去記事リンク

 

では、自分や世界をゆがめてとらえることで起きることとは、どのようなことでしょうか?

 

元々の私たちの自然な状態から遠ざかる(PTSDの症状)

体験がトラウマとなると、自分は小さな存在、犠牲者であると自分のことをとらえることで、下記のような反応のしかたを起こします。これらをPTSDの症状と言います。

 

・脅威感から抜け出せない:心も身体も警戒を解けないので、常に不安で、緊張している状態になる。そのことによって不眠、イライラするなど感情の調整がしにくくなる、身体への影響(例えば疲れがとれない、頭痛、過敏性大腸炎など)としても現れます。

 

・体験が過去のこととして整理されずに再体験症状として現れる:体験した当時と似たような状況に遭遇したり、ふとした何らかのトリガーによって、体験時にうけた感覚がそのままよみがえって、体験を再体験(フラッシュバック)する状態になる。

 

・トラウマを思い出したり、考えたりしたくないために回避行動をする:トラウマの記憶と関連するものを考えないようにしたり、思い出すきっかけとなるものを回避しつづける状態になる。時には、再び傷つかないように、心を麻痺させる方法として、アルコールや薬物などに依存をしていくこともあります。いずれも回避行動を取ることで、自分の普段の行動は制限され、生活の質が落ちていくことにもつながっていきます。

 

このように、自分や世界をネガティブにとらえてしまうと、私たちが本来もつ活力や元来の自然な状態から遠ざかる方向へと向かうので、生きづらさへとつながってしまいます。

 

安定した人間関係を築くのが難しくなる

トラウマ体験によって自分は守られない、世界は安全ではないといった、自分や世界への信頼が損なわれた状態になると、人間関係を築いていくことは当然難しくなってしまいます。

 

トラウマ体験によって自分や世界についての認知がゆがめられると、自分はいつも小さく無力な存在として存在することになり、その反対に人々や世界は信頼できない、やさしくない大きな存在として存在することになるでしょう。

そうなると、相手のことを怖いと思って避けたくなったり、逆に、本当は危険な相手かもしれないのに「こんな自分でも受け入れてくれる人なのではないか」と思って、過剰に相手に期待や好意を抱いてしまい、それが与えられない場合そのことで傷ついてしまったり、ということが起きます。

 

また、簡単に「支配―被支配」の構図に取り込まれてもしまいます。自分は無力だと思っているので、力の欠乏感を埋めるために、自分よりも力を持っている何か(人やモノ)を必要としてしまい、その相手の言いなりになったり、逆に虚勢を張ってあたかも自分に力があると感じたいために「誰か(何か)を支配する」ことに固執するといったことが起きます。境界線の記事でも書きましたが、共依存がトラウマと関連があるのは、トラウマによるゆがんだ自分や世界への見え方が、自分と相手との間のパワーバランスを見誤らせてしまうからなのです。

 

 

このように自分や世界への信頼や信用が欠落した状態は、自分と相手との適切な距離感をわからなくさせ、安定的な人間関係を築くことの障害となってしまうことにつながります。

 

抑圧することにエネルギーを使ってしまう

トラウマによって、凍らせた感情―感覚―思いは、解消されない限り、過剰な神経の高ぶりをもたらしたり、ふとしたはずみに再体験の症状がでたり、心にも身体にも影響を及ぼし続けます。このような状態が続くと、私たちは、野生動物のように解放するという方向ではなく、それがあまりにつらいので、さらに抑圧をしつづける、ということをします。

この、何かを思い出さないようにしよう、抑えようとする動きには、相応のエネルギーが必要です。ここにエネルギーが費やされると、抑うつ状態になったり、自分が何を感じているのか、何を思っているのかがわからなくなくなってしまう「感情的なマヒ状態」に陥ります。感情的なマヒ状態になると、自分の感情の扱い方、向き合い方がわからなくなってしまいます。トラウマの解消のためには、凍らせた感情―感覚―思いにアプローチして解消をしていく必要がありますが、この感情的なマヒ状態があると、感じたり、向き合ったりすることが難しくなり、それがトラウマからの回復を阻み、トラウマに苦しみ続けてしまうことにもつながってしまうのです。

 

ここまで、凍らせた感情―感覚―思いによって変えられたネガティブな自分や世界への認知がどのような形で影響がでるのかについて見てきました。

前回の記事で書いたように、野生動物は、トラウマを残しません。それは、捕獲者によって脅かされた生命の危機が去ると、自ら凍らせた状態(仮死状態)からゆっくり起き上がり(醒めて)、深呼吸し(腹側迷走神経系を刺激している)、体をぶるぶるふるわせて、留めていたエネルギーをリリースするからでした。

 

私たちがトラウマから回復していくには、上記の野生動物のように、フリーズさせて留めてしまったエネルギー(感情―感覚―思いの集積委)を解放することが大切です。

 

それでは、この凍らせた感情―感覚―思いをどのように解放し、トラウマから回復していけばよいのかを見ていきたいと思います。

 

トラウマからの回復のプロセス

凍らせた感情―感覚―思いを解放するには、まず、安心安全を感じられる状態になることが重要です。なぜなら、それが感じられないと、すでに書いたようにそもそも感情にアクセスすることができないからです。感情にアクセスできなければ、負の感情や感覚を解放することもできません。

 

感情にアクセスするためには、体験をトラウマにしてしまう4つの要素(UDIN)のうちの、I(一人で対処するしかなかった:Isolated)の部分にアプローチします。トラウマから回復するには、体験をトラウマにしてしまう4つの要素を取り除けばいいわけですが、特にトラウマは「誰も助けてくれない」という無力感と孤立感が支配する究極の状態なので、この状態と最も関係があるIからアプローチしていくことが効果的です。

そうすることで、これまで感じられなくなってしまっていた「安心安全」の感覚を取り戻すことをできるようにするのです。そこから入ることで、4つの要素の他の要素にアプローチしやすくなります。

 

I の要素にアプローチする方法は、「自分はひとりぼっちじゃない」というポジティブな感覚を感じてもらうことです。具体的には、トラウマの解放ワークに入る前に、サポーターになってほしい人や存在をイメージする、というワークを行います。

 

また、いきなり一番ショックが大きい場面や記憶の感情は扱わず、まずは全般的な負の感情を解放することも行います。具体的には、「もし思い出すとしたなら」という風に尋ねて、向き合うことへの怖さや不安感などを軽くするのです。(この際に、次に述べる感情解放のテクニック(EFT)などの心理療法を用います)これによって、トラウマの記憶に向き合うことへの抵抗も緩まり、感情や感覚へアクセスすることもしやすくなります。

 

私が採用している心理療法としては、「感情解放のテクニックEFT(Emotional Freedom Technique)」や「マトリックス・リインプリンティング」があります。これらは、エネルギーポイントである体のつぼ(経絡)を刺激していくのですが、つぼの刺激によって気が整うとともに、トラウマ体験によって留めてしまった感情や感覚、思いにアクセスがしやすく、アクセスができればできるほど抑圧していた(凍りつかせていた)感情や感覚、思いを解いていくことができるので、結果として歪んで解釈してしまった自分や世界へのとらえ方も変わることとなり、本来の自分、自分らしい自分へと回帰していくことができるのです。

 

また、トラウマケアの方法として「トラウマ解放エクササイズ(TRE)」という療法があります。これは、動物のように身体を震わせる運動をして、身体の中に残っている緊張感、エネルギーを解放することができるものです。ストレスの軽減から、紛争や自然災害などによる重度のトラウマケアにも使われています。

 

トラウマからの回復に大切なこと

再体験しないように注意する

トラウマの解放の治療を受ける、セッションなどの施術を受けるなど、トラウマに向き合うためには、前提として、「再体験」をしないように留意することが大切です。

 

なぜなら、凍らせたものが一気に急激に噴出してしまうと、処理したり整理したりする許容範囲を超えてしまい、それが新たなトラウマになってしまうことがあるからです。

 

炭酸水のボトルを急激に開けると、中の炭酸水が急激にあふれ出たという経験があるかと思いますが、トラウマも同じです。トラウマと向き合うためには、凍らせたものが一気に溶け出してこないように、ボトルのふたを緩やかに開ける際のあの手のひらや指の力を「うまく調整する」必要があるのです。

 

トラウマについての十分な知識、経験がある治療家、施術者を選ぶ

前述のような理由からも、トラウマからの回復のために治療や施術を利用する際には、トラウマやトラウマによってどのような症状や状態が引き起こされるのかについて十分な知識やトラウマ解放についての経験がある治療家、施術者を選ぶことも大切でしょう。

 

自分自身でも安心安全の感覚を育てる

前述の「うまく調整する」力を適切に働かせることに関係があるのが自律神経です。特に自律神経の回路の一つである腹側迷走神経がきちんと機能しているかがその調整力の鍵を握っています。

腹側迷走神経は、「ここは安全である」と判断されていればいるほど、交感神経と、安心して休息できることと関係のある背側迷走神経とを、バランスよく行き来することを可能にさせてくれる働きを持っているからです。

 

トラウマ体験というのは、自分の中から安全な感覚や安心感をそがれる経験なわけですから、トラウマワークをする際に、「安心、安全の感覚」を持ちながら向き合うためにも、また再体験をしないためにも、腹側迷走神経の機能を回復していく、より活性化できるようにしていくということが必要になってきます。また特に、腹側迷走神経系が十分に発達していない幼い頃に、長期間にわたり、繰り返し心の傷を負う体験をしてきた場合は、このステップがなおさら大切です。

 

腹側迷走神経を刺激する方法として、横隔膜から上の部分にある部位を活性化していくとよいです。以下は過去の記事にも記載しましたが、再掲しますね。

 

・顔のマッサージ・バーボーブーと口、表情を動かしながら声を出す・ハミングする

・深い呼吸を意識する(特に吐くのを長くする)

・自分にとって快適と思える音楽や音に触れる

・自分にとって、安心感や力をもたらしてくれるものをイメージして、イメージすることで得られる感覚をよく感じたり、自分の土台づくりのための資源(リソース)として活用する

・安心感や安全だなという感覚を与えてくれるものと接する(自然に触れることかもしれませんし、安心できる人やペットとの交流などかもしれません。)

 

ここで、このエクササイズを使われたAさんのケースをご紹介します。

Aさんは海外に住んでいらっしゃるのですが、一時帰国する日の前日にパニック発作に見舞われました(これが人生で初めての発作だったので、まさに4つの要素のUDINが揃った体験だったと言えます。)。それからというもの、神経が異常に高ぶり、何をするにも不安で、周りの音や気配など全てに過敏になるなどPTSDの症状に苦しんでいらっしゃいました。この時にご連絡をいただいたのですが、この時感情にアクセスすることが難しい状態でしたので、まずは、上記のエクササイズをご紹介しました。

そして約1ヶ月後にご連絡をいただいた時には、悩まされていた脅威感が消え、気持ちも穏やかな状態になられていました。聞くと毎日欠かさず上記のエクササイズを実践されていたとのこと。改めて腹側迷走神経の調整が、安全安心の感覚を取り戻すことに効果をもたらしたと感じる経験でした。

 

自分も世界も安全であるという感覚を取り戻そう

2回にわたって、トラウマのでき方、残り続けるトラウマによる影響について、またそこからどのように回復していくのかについて書いてきました。

 

トラウマのエネルギーは、私たちを過去に留め、私たちの生命力を閉じる方向へと向かわせてしまいます。

しかし、たとえ、絶望や生きづらさがあったとしても、「どんな体験も感情―感覚―思いの集積で構成されている」という私たちの心と身体のしくみに立ち返って、苦しみを生み出す感情―感覚―思いに向き合い、解消していくことで、今を生きているという感覚を取り戻したり、自分も世界も安全であるという感覚を回復することができます。この状態で自分自身や世界と関わっていきたいですね。

 

 


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ブログ 不安なときの対処方法 心のしくみを理解し安心をとりもどす

トラウマについて~生きづらさから解放されて自分を愛する力を取り戻すために~(前編)

2022年12月28日

今回からは「トラウマ」について書いていきたいと思います。

トラウマのメカニズムについての理解を通じて、なぜトラウマの解消が心身の不調や生きづらさからの解放につながるのかを理解していきたいと思います。

シリーズ1回目の今回は、トラウマがどのようにできるのか、そしてそのトラウマがどうして残り続けるのかについて見ていきたいと思います。

トラウマとは

トラウマとは、心に傷を残すようなつらい体験によって、その経験が、時間とともに単なる過去のひとつの記憶として消えずに、「トラウマ記憶」として残り続けることを言います。危険が去っても、トラウマ体験時に感じた思いや感情が、身体の中にとどまって、元に戻らない状態のことを指します。

そして、このトラウマによって、心が本来もつ機能や役割を果たせなくなることはよく知られているかと思います。この状態は、心身に様々な影響を及ぼします。不安障害や、パニック障害、うつ、依存症、摂食障害などの症状となって出たり、人間関係を構築していくことに難しさを感じたりと、生きづらさと深く関係するのです。

 

心に傷を残すつらい体験とは

「心に傷を残す辛い体験」とは、どのようなものでしょうか?

それらは色々に分類できますが、一つの例としては、一過性の非日常的な体験と、継続的にくりかえされる体験に分けることができます。以下はその例です。

 

<一過性の非日常的な体験の例>
・事故に遭った・事件に巻き込まれた
・自然災害、火災を経験した
・リストラに遭った
・暴力的な犯罪に遭った
・レイプなど望まない性行為を強いられた
・親しい人、大切な存在が亡くなった
・自分は経験していないが、他者がこれらを経験しているのを目撃した
・手術や何等かの医療処置において怖い思いをした

<継続的に繰り返された体験の例>

・暴言・暴力など、精神的・肉体的な虐待に遭っていた

・親や養育者から適切で十分なケアを与えられずニグレクトの状態にあった

・性的な虐待に遭っていた

・両親の仲が悪く、親同志の喧嘩、暴力を目撃していた

・長期にわたるいじめに遭った

 

危険な状況におかれたときに起こる生理的反応 3つのFパターン

私たちは、危険と感じたとき、命の脅威を感じるような状況に遭遇した際に、私たちの心と体はどのような反応を起こすのでしょうか?

 

安全が脅かされると感じた時は、私たちはとっさに反応します。「本当に危険なものなのかどうか」といった判断をする間もなく、危険だと察知すると、脅威から命を守るためのプログラムとして、防衛反応が作動するのです。この防衛反応には、3つのパターンがあり、その頭文字をとって、「3つのF」と言われます。いずれも危険な状況から命を守るための大切な生理的反応です。

ちなみに、この時、生命の維持を司る脳幹といった脳の古い部分が使われています。

 

<3つのF>

①Fight 闘う:危険な状況に立ち向かって、その状況を打破しようとする反応。その状況、相手に対して好戦的、攻撃的になったりして闘争モードとなる。

使われる自律神経の回路:交感神経

 

②Flight 逃げる:危険な状況から命を守るために取る反応。安全でないと判断される状況から逃げる、回避する。苦手な状況、人を避けるというのもこの反応です。

使われる自律神経の回路:交感神経

 

③Freeze 凍りつく:闘うことも逃げることもできないときに用いられる反応。あまりの恐怖に身がすくんだり、立ち尽くして動けなくなったりしている状態はこの反応によるものです。動物は、捕獲者に対して闘うことも逃げることもできないときは死んだふり(仮死状態)をして、捕獲者のが興味を失わせて、命を守るという戦略をとったりします。私たちが無表情になったり、ショックな出来事についてよく覚えていなかったり、記憶が抜け落ちるというのは、この反応によるものです。

使われる自律神経の回路:副交感神経の2つの回路のうち、背側迷走神経

自律神経についての記事

 

「過去のひとつの記憶」とならずに「トラウマ記憶」としてとどまり続けるメカニズム(理由)

それでは、単なるつらい経験ではなく、「トラウマ体験」になるのはどういう要素が関係をしているのでしょうか?

 

要素として、

・体験そのものの大きさ(よくある体験なのか、生命を脅かす体験なのか)

・体験のしかた(誰も気づいてくれず、誰にも助けてもらえない、繰り返しつらい出来事を体験するなど)

が挙げられます。

 

「トラウマ体験」となる4つの要素UDINからの考察

例えば、ドイツ新医学の分野では、以下の4つの要素が重なると「トラウマ体験」である、と言うのですが、これはまさに上記の体験の大きさ、体験のしかたという要素ともマッチするなと思います。

 

4つの要素

U:予期していなかった(Unexpected)

D:劇的でショックが大きかった(Dramatic)

I:一人で対処するしかなかった(Isolated)

N:対処する術、方法がなかった(No Strategy)

 

これらの4つを、例えば、地震などの自然災害や、事故などを例にとると、これらの4つがわかりやすいかと思います。これらは突然起きます。だからこそ、そのショックは大きい。たとえ周りに人がいたとしても、気が動転していたり、パニック状態になっていると、助けを求めることも難しくなり、目の前の事態にどうすることもできないと感じる、といった風にです。

 

トラウマレベルに影響を及ぼす3つの因子

またさらに「トラウマ体験」の傷の深さに影響を及ぼす因子として以下の3つがあると言われます。

 

①一つは、トラウマ体験にさらされた時間の長さです。それが、一回もしくは短期間だったのか、長期間にわたったあるいは、日常的に繰り返されたのか。

 

②もう一つは、大人になって経験したものなのか、心も脳や神経系も含めて発達の途中である子どもの頃に体験したものなのか。

 

③最後の一つは、自分と相手との間にどれぐらいの関係性の近さがあったのか、です。
例えば、日常生活の中で、親や養育者との関係が不安定だったり、学校でいじめにあっていっていたなどは、自分と近いい関係がある人との間で起きた問題として捉えることができ、それがトラウマのレベルに影響を与えるということです。

 

凍らせたままになる感情―感覚―思い

先に、防衛反応の3Fについて述べましたが、そのうちの一つであるFreeze反応は、危険で恐ろしい経験に対して命を守るという意味では大切な反応なのですが、同時にその時に感じた感情―感覚―思いを切り離して閉じ込めることもします。解離と言ったりします。その経験とよく覚えていない、記憶が抜け落ちているといったことがあるのはこのためです。生命の維持のために、その時のショックを感じないようにしているわけです。

ちなみに自然界の野生動物は、死んだふりをしたことによって、捕獲者が興味を失って退散し、安全を取り戻すと、ゆっくり起き上がって、深い呼吸をし、体を震わせて体内に閉じ込めていたエネルギーや恐怖、緊張を解放して通常の状態にリセットするということをします。そうすることで、トラウマ体験として残らないのです。

 

しかしながら私たち人間は、野生動物のように、体内にためたエネルギーや感情―感覚―思いなどを自然に解放することができません。

その体験で感じたこと(光景、におい、光など五感で感じ取っていたことも含みます)をそのまま閉じ込め、凍らせることになるのです。

さらに、そこに体験の大きさや体験のしかたといった要素も加わった場合、閉じ込めるものがどれだけ大きいものになるか、想像に難くないかと思います。

 

レジリエンスを低める幼少期の体験

前述のトラウマレベルに影響を与える3つの因子(時間の長さ、時期、関係性の近さ)は、私たちの、ストレスや逆境に対応したり、そこから回復する力(レジリエンス)にも影響を及ぼします。そして、その力が未発達であることによって、トラウマ体験がトラウマ記憶として残ることにもつながっていきます。

対応したり、回復したりできる力は、子ども時代に親や養育者と安定した関係があったり、守られている、ケアされているという感覚が十分に持てていると健全に育まれていきます。

 

そして、それは、その子の世界と自分自身を見る土台にもなっていきます。ですので、この土台が不安定であったり、脆弱であると、成長する中で経験することが、傷(トラウマ記憶)として残りやすくなってしまう要因の一つとなります。

 

 

このように見てくると、様々な要素や因子が影響したり、組み合わさったりすることで、体験がトラウマ記憶としてとどまることを理解できるのではないでしょうか。

 

 

次回は、トラウマによる凍らせたままのものから見える世界と、トラウマからの回復について書いていきたいと思います。

 

 


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