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深い傷つきや絶望から抜け出すために大切なこと

2023年8月24日

今回は、「深い傷つきや絶望から抜け出すために大切なこと」について書いてみたいと思います。

夏の休暇を利用して、新潟のワイナリーにてツアーに参加したのですが、ツアーのガイドさんの言葉から、あるクライアントさんが辿った経過や変化のことが思い出され、それは、改めて私に勇気や力を感じさせてくれる経験になりました。今回は、そのことについてお話してみたいと思います。

 

ツアーに参加したこのワイナリーは、1992年に創業され、この30年をかけてこの土地にあった最適品種にようやくたどり着けたという、そんな歴史をもつワイナリーです。最初は水を引くところからも苦労があったそうですが、今では、9ヘクタールに20種類、2万7000本のぶどうが栽培されています。ツアーでは、このぶどう畑、精密に温度管理された醸造室、多くの樽が並ぶ樽熟成庫、3万本のワインが格納されているセラーなど、ワイン造りの中心となる場所を案内してもらいました。

 

最適な品種にたどり着くまでに30年を要したのは、この土地が、海岸に近いことから土壌が砂質であることや日本海側であることから湿気があることなど、この土地特有の風土や気候といった条件があったからだそうです。それらに合うものを試行錯誤を重ねながら見つけてこられたということでした。

 

30年前というと、自分の歳に置き換えると、私は、まだ20代。そんな頃から少しずつ畑を広げ、栽培数や生産本数を増やすことに尽力されてきたのかと思うと感慨深いものがありました。

 

また、ツアー中にガイドさんがおっしゃった言葉の中で印象に残ったものがありました。

それは、「ワインづくりに失敗というものはなく、いつも可能性を感じる作業である」というものでした。今年のぶどうは不出来かとか、味がよくないかと一見思えても、瓶熟成や樽熟成を経て、開けてみると思いもよらないよい味に変化していたということがあり、土地やぶどう、その醸造にいつも可能性を感じている、と。

 

私は、このようなワイナリーの歴史や、土地やぶどう、醸造の可能性の話を聞いて、あるクライアントさんのことを思い出しました。

その方は、親から十分な愛情がもらえず、深く傷つき、大人になってからも、親への許せない気持ちや、自身の中に渦巻く孤独感、無力感に苦しんだ方です。絶望から、死の淵を見るほどの苦しみも味わったともおっしゃっていました。

 

このような経験がある方だったのですが、自身と向き合っていく中で、この方の中にあった「自分がこんなつらい目に遭っているのは親のせいだ」という犠牲者意識が和らいでいき、この犠牲者意識から抜け出すことができるようになっていきました。

親がそのようなふるまいをしたのは自分のせいではなく、「相手の問題だったのだ」といったような、自分責めや自己否定をしない状態になり、つらく苦しんだ自分を許す気持ちも自然と出てくるようになったのです。

 

そして、こうした変化を経験された中で言われた言葉がありました。

それは、「私は私をあきらめなくて本当によかった」というものでした。この言葉は、「私は私自身と向き合うこと、またそれができる力をあきらめなくてよかった」と言い換えることができると思います。

 

小さな子どもにとって、自分が守られているか、愛されているかを感じることができるのは、親(養育者)や家庭の雰囲気からです。しかし、ニグレクトや虐待などによって、守られている感覚や、愛されている感覚を与えられない、愛が欠乏している状態のままだと、自分への認識や世界の見方に大きく影響を及ぼし、自分は愛されても良い存在なんだと思えず、自分でも自分を愛することができなくなったり、「世界や人は怖い」と思いこんでしまったりします。その状態は、大きなあきらめや絶望を感じさせることになるのです。

 

このように大きすぎるあきらめや絶望があると、それが蓋となって、その奥にある傷ついている気持ちを隠してしまい、そこにアクセスできないようにしてしまいます。そのため、自分が傷ついている部分を受け容れていくことができなくなってしまいます。本当の気持ちと自分とが、乖離したままの状態になるのです。

 

ですが、この方は、このあきらめや絶望があることを受け容れ、その奥にある傷ついた気持ちを見るようにされました。親を責めたり、自分を責めたりといった犠牲者の目線に留まるのではなく、親との関係の中で、実際どんな気持ちだったのか、どんなことを感じていたのかに目を向け、愛が欠落してしまった部分を受容し、満たしていくことをしていかれたのです。(具体的には、ネガティブな感情や感覚などをセラピーを使って解放していきました。)

それにより、親への憎しみが和らぎ、頭の中にフラッシュバックする親の言動が消え、誰からも奪われることのない本来の自分の力を見出し、穏やかな気持ちでいられるようになっていきました。

 

このように、ワイナリーツアーでのガイドさんの言葉から、土やぶどう、発酵の力を信じて、30年という年月、向き合ってきたワイナリーの姿勢と、どんなに絶望していたとしても、そんな自分自身の中にある力を信じてあきらめなかったクライアントさんの姿が重なりました。

そして、こうした姿勢やまなざしが、変化への可能性を開いていくのだと、改めて思い起こされ、私の中にも勇気や力が戻ってくる感覚を感じることができました。

 

深い傷つきからの絶望やあきらめがある時こそ、それらのさらに奥にある自分の中の愛を欲している部分に目を向け、声を聞き、癒していくことが、愛へと戻れる道すじであることを覚えておきたいですね。

 

 

 

 


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人間関係のしんどさを解決する健全な境界線②~自分を大切にしながら相手も大切にできる~

2022年10月23日

今回は前回からの続きの境界線についてです。

前回は、私たちが自分の中で起きていることに責任をもてるかという精神的な自立が、健全な境界線を引けることに関わっていることや、それを難しくさせる理由として、自我の性質と人生の中での傷つきについて解説してきました。

 

今回と次回は、いくつかの個別のケースを出しながら、越えるとき、越えられるときに、心の中でどのようなことが起きているのかを見ていきたいと思います。

 

また、次回の最後には、境界線を越えない、越えられるのを許さないために私たちはどうしたらいいのかについても触れていきたいと思います。

 

今回は、DVなど自分を傷つける人と関係を切ることができないケースと、親の過干渉で自分で決めることができなくなった子どものケースを題材に、健全な境界線を引きにくくさせる理由を心の仕組みから解説していきたいと思います。

 

自分を傷つける(DVなど、言葉や身体的な暴力、虐待)人と関係を切れない

親子関係や夫婦関係において、傷つけられているのにその関係を断ち切れず、その関係の中にとどまり続け苦しむというケースについてです。

 

この時、傷つける側、そして傷つけられる側の心の中ではどのようなことが起きているのでしょうか?

 

傷つけたいという衝動の奥にあるのは「自分には力がない」という思い

最初に、傷つける側を見ていきましょう。

 

相手を傷つける態度として現れる形の例として、

 

・相手に自分の思いどおりの行動をさせる
・自分と違う考え方、意見などを持つことを許さない
・相手が離れようとすると、離れていかないように、相手の怖れを刺激して(脅しなどはその例)相手を支配下に置き続けようとする

 

などがあります。

 

また、傷つける側は、「お前が悪い」「お前のせいだ」「お前がわかっていない」と口汚くののしったり、攻撃をし、相手の領域を越えてきます。

 

私たちが、相手を攻撃する時というのは、私たちの中に何らかの感情、感覚、思いが抑圧されている時です。そして、それらを刺激されるような事態が起きると、自分を守るために(抑圧している感情、感覚、思いに向き合わないために)、攻撃という形を取るのです。

例えば、自己肯定感の低い夫が、ある朝、Yシャツにアイロンがかかっていないことを見て烈火のごとく怒ったとします。これは、もともと自分の中にあって触れられたくない「自分の願いは受け止めてもらえない」といった傷があるからなのですが、それに向き合おうとせずに、反対にそれを刺激した犯人を外に探して(投影)、「自分をないがしろにしているからだろ!お前が悪い!」と問題のすり替え(防衛・攻撃)をしているのです。

 

トラウマや傷つきによって自己価値が低まっていると、「自分には力がない」というものがベースになりますから、自分の中にある様々な怖れや不安、不全感、欠如感といったものに向き合うなど、怖すぎてできないものです。ですから常にすり替えをして、誰かのせいにする必要があったり、相手や周りを服従させたりすることによって、自分の不全感、欠乏感を埋めるということをしなければいけなくなります。これは、自分の中で起きていることへの責任を持つことを放棄しているのです。そのことに心の深いところではうっすらと気づいているのですが、無力な自分ゆえに、それをどうしたらいいのかわからないので、誰かや何かのせいにしないとやっていけないのです。

 

このように、私たちの心はいつも抑圧→投影→防衛・攻撃という仕組みで動きます。

それゆえに、傷つける側は、いつも攻撃の対象を必要とするのです。

 

傷つけられる側の中にもある「自分には力がない」という思い

では、一方の傷つけられる側の心理はどうなっているのでしょうか?

傷つけられる側の人たちがよく思っていることは、「誰も助けてなんかくれない」ということです。自分のことを「無力で小さな自分」と見てしまうので、外に助けを求めるという発想自体がない(という世界観を持ちやすい)のです。ゆえに、たちまち境界線を越えられることを許してしまいます。

さらにひどいときには、越えられていても、むしろ「私が悪いからそうされて当然」、「私は尊重される資格がないのだから」「私は悪い人間だから」と自己卑下をベースにして相手の行為を正当化したり、「相手の役に立てている」「私がいないとあの人は生きていけないから」と自身の不全感を埋めるために、無意識にこの関係を利用したりもします。

 

このように、傷つけられる側にも、傷つける側と同じように、怖れ、無力感、不全感、欠如感があるのです。

自分に価値があると思っている人は、こちらに非がないのに暴言を吐かれたり、暴力を振るわれたりしたならば、それは相手の問題だ、相手がおかしいと、きちんと切り分けができて、自分の領域の中に留まることができます。

 

この傷つける・傷つけられる関係は、一見、傷つける側が力を持っているような関係に見えますが、いずれも、「自分には力がない」という思いをベースに惹かれ合っている関係です。お互いに精神的に自立しているという感覚が薄いため、共依存となり、どちらかがこの関係から抜け出すというのは、なかなか難しいものになってしまいます。ですから、はたから見て離れた方がいいと思える関係であっても、本人たちはその関係にとどまり続けてしまうのです。

 

親の過干渉で自分で決められなくなった子ども

最近は、過保護、過干渉の親のことを「ヘリコプターペアレント」と呼んだりします。子どもがつらい思いをしたり、不安を感じたりしないようにと、先回りをして、子どもが解決すべき問題、子どもが考えて判断したり、決断したりする事柄を全て引き受けようとするのです。こうした親子関係では、親が境界線を越え、子どもが越えられる立場となります。

 

「あなたのためを思って」「あなたのためだから」「私の言うことを聞いておけばいいのよ」という言葉は、過保護や過干渉な境界線を越えている親からよく聞かれる言葉ではないかと思います。

 

親子ですから、愛情で結ばれている関係ではありますが、実はこれは、親自身の中にある「他人の目にいい親と映っているだろうか」「子どもの能力を伸ばせない親と思われていないか」「親失格と思われないか」といった子育てへの不安や自信のなさを、子どもを使って解消しているのです。子どもが考えたり、判断したり、決定したりという精神的な成長の機会や可能性を奪うとしたならば、一見愛情をベースにした言葉がけや行動に見えたとしても、それは、境界線を越えた対応と言えるでしょう。

 

一方で、過保護や過干渉な対応を受けて育った、つまり境界線を越えられて育った子どもはどんな風になるのでしょうか? 一つケースを見ていきましょう。

 

Aさんは、30代前半の女性ですが、小さい頃から習い事などでは何を習うのか、どこで学ぶのか、どの学校に行くのか、何を着るのか、どういう友達と付き合うのかなどをすべて母親が決めてきたと言います。先んじて色々なことをやってもらえた分、楽ではあったのですが、一方では自分がどうしたいかをわからなくさせられている感じがずっとあったとのことです。

 

そんな彼女は大人になった今、相思相愛の相手と出逢えたのですが、いつもどこか相手のことが信じられなく、自ら関係を壊したくなってしまう、という悩みを抱いています。

 

Aさんのように過保護や過干渉な環境で育った子供は、いつもどこか「理解されていない」「わかってもらえていない」「人は自分の思い通りに人を動かす」といった不満を抱えたり、「自分が信頼されていないのではないか」といった自己不信を持つことになります。さらに自分自身で何かを成し遂げたという経験が少ないので、自信も育ちません。

 

そして、これらの自信の欠如や不満感の蓄積は子どもの心の中で無力感を深め、自分で自分の人生を選んで決めている、「自分が自分を生きている」という感覚を弱めてしまいます。それにより、自分の領域はここからここまで、という風に境界線を引くことを難しくさせるのです。特に愛情が絡む関係であると、境界を越える親の行為を愛情だと勘違いするために、なおさらわかりにくくなります。

 

その結果、
・自分が何が好きなのか、本当は何がしたいのかがわからなくなる
・何かを決めたり、判断したりするときに怖くなってしまう
・相手を試して、本当に大丈夫だと思えない限りは判断や行動がしにくくなる
・誰かの判断をいつも仰ぎたくなる

ということが起きることになるでしょう。

 

Aさんが今、パートナーと関係を深めていくにあたって、抵抗感がでてきてしまうのも、理解ができますね。

 

 

今回は境界線を越える、越えられるのを許すことで起こる共依存の関係をパートナーシップと親子関係を例に解説をしました。

次回は、相手に言ったり、したりしたことが良かったのか? と気になったり、自分のせいだと思ってしまう時を例に、その時の心の状態について見ていきたいと思います。

 

 


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人間関係のしんどさを解決する健全な境界線①~自分を大切にしながら相手も大切にできる~

2022年9月15日

今回から、新しいシリーズとして、境界線について書いていきたいと思います。

健全な境界線が引けると、おおかたの人間関係の悩みが解決すると言われているほど、円滑な人間関係を築いていくことと、健全な境界線が引けるかどうかとは密接な関係があります。

今回は、まずは境界線とは何なのか?を理解します。その上で、次回からは2回にわたって、健全な境界線を引けない場合、どんなことが起きているからなのか?を心のしくみから見ていきたいと思います。

 

境界線って何?

まずは、境界線とは何なのか?を見ていきましょう。

 

国語辞典「大辞泉」には、「境界線とは、土地のさかい目の線。また、物事のさかい目」とあります。

 

例えば、空間や土地などは、契約や登記といったルールによって線引きされた形として、壁があったり、塀や線があったりして、境界線がわかりやすく存在します。

また、物事のさかい目は、例えば、扇風機とサーキュレーターは、モーターで動いているという点は共通ですが、人の体に風をあてて涼しくさせるという目的と、一方は空気を撹拌するためのものといった風に、「目的の違い」によって、境界ができるわけですね。

 

つまり、このさかい目は、区分線や境界線が自然にあるわけではなく、何らかのルールや定義、基準によって「どこまでがこっちのもので、どこまでがあっちのものなのか」が明らかになり区別され決められるということです。

また、一旦、区別され、境界ができると、境界線で区切られたそれぞれの所有地(エリア)で起きることについては、各自が責任を持つことになります。自分の庭の芝が枯れそうになれば、自分が水や栄養を与えたり、芝が伸びれば自分が刈り取って整えたりするようにです。

そしてこのように各自がそれぞれの所有地(エリア)で責任を持てている限り、関係性は安定的なものとなります。

 

人間関係で境界線を決めるものとは?

これを自分と他者という関係に当てはめることができます。

自分と他者との間の境界はどのように決まるのでしょうか?

 

それは、

 

「感情や思いといった各自の中で起きることについて、どこまでが私のもので、どこからが相手のものなのかが見極めること」によって決まってきます。
 
「見極める」というのは、「それらに責任が持てるのは誰なのか? コントロールできるのは誰なのか? がわかっていること」

と言ってもよいかと思います。

 

つまり、自分と他者との間で健全な境界線がひけるのは、

 

「自分の中で起きることについて、それらに責任をもてると思えているかどうか、コントロ―ルすることができるのは誰かがわかっている」時である

ということです。

 

境界線に関する私の事例

私もこれまで(そして、今でも!)、たくさん境界線を越えたり、越えるのを許してきたりしました。

 

私が境界線を越える事例

私には、姪っ子がいるのですが、彼女は、部活道以外に書道やダンス、楽器の演奏に取り組みながら学生生活を送っています。
その彼女に対して、「学校の勉強は大丈夫?ちゃんとやっている?」とついつい電話口で確認したり、発破をかけたくなってしまうのです。しかしながら、どういうペースで勉強を進めていくのかは、本来、姪っ子の所有地(エリア)のことで、彼女が決めることです。それなのに、「おばちゃんの言うとおりにやった方がいいよ」とか、「勉強以外のことも大切だけど、勉強もコツコツとやらないとダメだよ!」などと私のやり方や提案を押しつけたとしたならば、それは、境界線を越えることになります。

 

また、もう一つ、越えた例として、今でも苦笑いしながら思い出すことがあるので、そちらもご紹介しますね。

 

それは、イギリスにいた2010年頃だったと思うのですが、その頃はまだまだ不安感が強くてパニック障害の症状も出たりと不安定な状態で過ごしていた時期で、週に1度カウンセリングのセッションに通うのがルーティンとなっていました。そして、そのカウンセラーさんが何かの講座をされるということで、そちらに参加することを決めたのですが、会場がロンドンから電車で数時間という場所でした。乗り物恐怖がある私は、当然不安感で一杯で、特に日本と違って接続が悪いイギリスでは、どうやったら混まない電車に乗っていけるだろうとそのことばかり考える毎日です。

いよいよ講座の日が近くなったあるセッションの日に、私がしたことは、頼まれてもいないのに、講座の時間に間に合う電車の時刻表をリスト化したものをカウンセラーさんに渡すということでした。もしかしたらカウンセラーさんは前乗りで前日から現地に向かうかもしれないですし、電車でなく車で向かうかもしれないですし、いつどうやって行くのかを決めるのは、カウンセラーさんなのに!です。

ですが、その時は、不安でしょうがなく、その不安感に本当の意味で気づいていないので、それを相手に投影し、「相手も電車でスムースに行けることを望んでいるのではないか?」と勝手に想像して、作った時刻表を渡すということをしてしまうわけです。自分の不安感からこのような行為をしているとは全く気がついていないので、むしろ「親切なよい行いができた」とまで思っているぐらいでした(笑)。その時刻表をどうされたかはわかりませんが、恐らく「境界線を越えられたな」とカウンセラーさんは気づいていたと思います。

 

しかし当時もし自分が「私が不安なんだな」と気づいて、その不安感に向き合ったり、解消したりしてケアすることができていたら、全く違った行動になっていたことでしょう。

このように、私は私の中で起きた不安感について責任を放棄した結果、境界線を越えるということになってしまったのですね。

 

越えられるのを許す事例

心のことをやっていたり、自分を見つめましょうといったことを発信していると、私が「全部癒されていて、楽に生きているのではないか」と思われたり、言われたりすることが時々あります。しかしそんなことはありません。私なりに、悩みがあったり、自分を見つめるためのネタにはことかきません。

ところが、もし私が、相手の私への解釈やイメージを壊さないようにといかにも「楽に生きている私でいるように」と頑張ったり、無理をしたとしたなら、それは「境界線を越えられることを許した」ということになります。

反対に、「この解釈やイメージは、相手の中(所有地)で起きていることだな」と気づいて、私は自分の所有地(エリア)からは出ていかなければ、相手がいわば勝手に(!^^)抱いた解釈やイメージについてもリラックスした対応ができます。それは、例えば、懸命に否定することをしないとか、逆に相手のイメージに合わせようとしないといったようにです。

 

バイロン・ケイテイの三つの領域と境界線

スピリチュアルティチャーのバイロン・ケイテイは、私たちには三つの領域があると言っています。

それは、

・私の領域

・彼・彼女の領域

・神の領域

 

です。

ちなみに、神の領域というのは、天候、自然災害、事故、社会現象といった、個人の力の及ぶ範囲を超えた領域のことを指しています。

 

それぞれの領域を越えようとするとき、私たちは、苦しみを感じます。

 

例えば、今雨が降っている状況に対して、「晴れてくれないと困る!」と神の領域で起きていることに対して闘おうとすると、決して勝つことはできないので、自分を天候の犠牲者と感じて苦しくなってしまいます。

あるいは、母親が、娘が結婚をしないことをいくら心配しても、いつ誰と結婚するかは娘が決めることなので、母親はストレスに感じて苦しむことになりますし、娘の中にも結婚に対する焦りなどがあった場合は、母親からのプレッシャーはやはり苦しみとなります。

 

私たちは、自分の中で起きることについて、それらに責任をもてると思えていて、コントロ―ルすることができる(何かを選択したり、決めたりすることができる)のは誰なのかがわかっていると、「雨が降っていること」、「娘がまだ結婚をしていないこと」、「母が心配をしてあれこれ言ってくること」は、心地は良くないかもしれなくても、苦しみにはならないのです。

 

自分の領域(所有地、エリア)の中に留まることがもたらすもの

健康な境界線を引くことができると、犠牲者、加害者というものが出現しないので、3つの関係性が安定します。

 

それ以外にも、次のようなことがもたらされます。

・自分主導で、自分が自分の人生を所有、生きているという感覚をもてる
 
・他者や何かに依存せずに、自分で自分の問題、人生を管理していると実感できる
 
・自分の能力がわかっており(自分が何ができ、何ができないかがわかっている)、その範囲内において自由や可能性を行使したり、楽しんだりすることができる
 
・自分と他者を優劣で見ず、愛や信頼をベースにした互いに尊重し合う対等な関係で関わることができる

 

境界線を越える例、境界線越えを許す例

逆に、領域の中に留まることができないときに起きることを、越える場合と、越えられることを許す場合とで、例を挙げてみたいと思います。

 

境界線を越える例

・私が幸せになれるためには、あなたが必要
 
・私の思い通りに動いてくれたら私は安心、幸せ
 
・私があなたの代わりに決めてあげる、やってあげる
 
・私の都合やニーズに合わせてちょうだい
 
・誰かのためにやってあげることで自分の価値が上がる、保てる
 
・私が希望するやり方で私を認めて

 

境界線越えを許す例

・自分で決めない、相手の都合や希望に従う
 
・自分は我慢する、自分の都合やニーズを抑圧する、断れない
 
・波風が立たないように、このまま自分が黙っていたり、何もしないでおこうとする
 
・決めれられてしまうのは嫌だが、自分で考えたり動いたりしなくていいので楽だと思う

 

境界線を引くことを難しくさせるもの

それでは、健康な境界線を引くことを難しくさせるものは何なのでしょうか?

自我という性質

以前の記事でも書きましたが、私たちの根源には、本質(ありのまま)から離れてしまったという“誤解”があり、そこから生じる、怖れや不安、欠如感といったものが、いつもあります。それゆえに、根源的に、自分のことを小さい存在、無力な存在という風に無意識的に思っていたりするのです。

 

人生の中での傷つき

そんな元々の性質をもちながら、人生を歩む中で何等かの傷を負った場合、自己価値が低まり、さらに小さい私、無力な私を強化してしまうでしょう。すると、そんな私にとっては、自分の領域の外のものを使って、自分を満たしたり、安心したりできるのではないか、という思いをさらに強めることになります。

これは、境界線を越える場合は、自分の領域外のものを自分の思い通りにして一時の優越感や満足感を得たいといった衝動やふるまいとなりますし、境界線越えを許す場合は、最初から従って、事を荒立てないことで安心感を得たいという風になります。

ですが、無力な私という思いを出発点にして、自分の領域外のものに依存するという意味では共通です。

 

このように、元々の自我という性質と、さらに人生の中での刷り込みや経験などで自己価値が弱められた結果の、「自分は小さくて無力な存在」という“誤解”を信じている私にとっては、いつも何かに依存していなければならないので、境界線を引いて、自分の人生のイニシアティブを握るということは難しいものとなってしまうのです。

 

ですが、これは裏を返せば、自分から自分への誤解を解いていければ、自然と健康な境界線を引いていくことができるということでもありますね。

 

 

まとめ

人間関係についての著書で有名な臨床心理学者のトマス・ゴードン博士は、健全な境界線が引けるとその境界は「通り抜けができるぐらい浸透性があり、危険物は閉め出しておける程度の強度がある」と言っています。

 

越える、越えられることを許す例を出しましたが、自分から自分への誤解を解いて、ゴードン博士の言うような健全な境界線が引けるヒントとなるように、次の回からは、越える、越えられるときにどのようなことが起きているからなのか? を個別のケースを出しながら見ていきたいと思います。

 

 


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すごく疲れているのに、弱音を吐けない

2022年3月31日

今回は、すごく疲れているのに、弱音を吐いたり、助けてほしいと表現することができないというテーマです。

私たちは時に自分が感じていること、思っていることを表現してはいけない、出してはいけないと我慢してしまうことで、つらくなってしまうものです。

その状態から楽になっていくには、「頑張って表現していきましょう」ということではなく、どうして表現することが難しいのか、出しにくくさせているのは何なのか、の理由を理解していくことです。

 

Aさんは、2年前に離婚し、小学生の息子さんと実家に戻り両親と生活を送っている女性です。
パートをしている間、お子さんの面倒をみてくれている母親が最近体調がすぐれず、検査入院を繰り返す状態が始まりました。そんな中Aさんには、疲れがたまってきて、気分がふさぎ、眠れないなどの状態になっているとのこと。「疲れがとれずしんどくて、休みたいのだけれど、家のこともあるし・・・」と重たい体をひきずるようにして仕事に行ったり、母親の病院への付き添いや家事をこなしています。
 
最近は、これ以上母親の状態を見るのがつらくなってきて、いっそのこと家を出ようかという考えまで出てきてしまうのだそうです。一方でそれは母親を見放す感じがしてそれもできない、一体自分はどうしたらいいのかわからなくなっているというのです。

 

感じていることにフタをすると起きること

私たちの本来の自然な状態とは、基本的に自分が感じていること、思っていることをきちんと自分が受けとめ、それらを表現できている時のことを言います。嬉しさや喜びを感じているときに、それらを表現できるととてもすっきりとして気持ちがよいものです。それと同じで、辛さや悲しさも、表現できるのが自然な状態です。このAさんの場合、「自分が疲れている、今は休みたい」などの思いを表わすことが、本来の自然な状態です。

 

ところが、Aさんは、そうした気持ちを素直に表現することができません。それどころか、そうした気持ちを感じていないように、その事実に蓋をしているのです。

 

すると、徐々に誰も理解してくれないといった怒りや不満、孤立感が出てきたり、自分を責める思いや後悔の念が出てきます。Aさんの場合は、離婚したこと、結婚したことを悔いるということも起きます。フタをして抑圧した思いは、ある時に一気に爆発することがあります。相手にあたってしまうとか、急に人間関係全てを切りたくなるということがあると思うのですが、それはこのフタをしつづける状態が続く結果、起こることのひとつの例です。

 

このように自分が感じていることを抑えることは、ある意味自分自身との断絶でもあるので、それがひいては、他者や世界との分断も深めてしまうということにもつながっていくのです。

 

 

また感じていないようにするには、本当の気持ちを抑圧しておくための相応の力やエネルギーを要します。フタをすることにエネルギーを使い続けるので、私たちの中には、疲れがたまってきます。しかしそれをも抑圧するのです。その結果、気力がなくなる、やる気が起きなくなる、鬱っぽくなる、眠れないなど、心や体にも影響が出てきます。生命力を閉じる方向へ向けさせるので相当つらい状態に陥っていくのがわかるかと思います。今まさにAさんが直面している状態ですね。

 

そして、上記のような状態になってまでも感じていることを表現してはいけないのは、何らかの理由がある(何らかのビリーフをすごく信じている)、ということでもありますね。

ですから、この理由の部分を理解していくことが、楽になっていく道すじである、ということもわかるかと思います。

 

フタをしないといけない理由をみてあげよう

私たちが本当は感じていることにフタをする時、それはどんな時でしょう?

 

例えば、
・遠慮があるとき
 
・(もう傷つきたいくないので)自分や相手に対して期待することをあきらめているとき
 
・引け目や負い目があるとき
 
・自分が表現できる立場にない、表現するに値しない(存在だ)、など自分を低く見ているとき
 
・相手が強く見えたり、怖く見えているとき

 

このようになっている時、自分の感情を押し込めてしまう、言わないでおいてしまうなどが起きるのではないでしょうか?

 

Aさんの場合:「頑張らないと両親の愛情をもらえない」

Aさんは言います。

「離婚して実家に戻ったことをすごく責めていました。
小さい頃から他の兄姉に比べられて育った私は、いつも、兄姉たちに負けないようになんとかして親の関心をひくように頑張っていました。末っ子の私はなにかいつも愛情をもらえていないような気がしていたものです。
 
そんな私が結婚生活がうまくいかなくなって、実家に世話になることは私にとっては『人生に失敗した』とまで思える出来事であり、兄姉の中でも『やっぱりダメな子』ということを実感しないといけない体験でもありました。
ですから、実家に戻ってからの生活では、なるべく両親に迷惑をかけないように、両親の思いをかなえてあげなきゃと努めて生活をしていました。なのに、親孝行をしようと思って頑張ってきたのに、今母がこんな状態になってしまって……。」

 

Aさんには、「末っ子の私は、頑張らないと、愛情を与えてもらえない」といった思いがあり、だからこそ、愛情をもらうためにも、「いい娘であろう」、「親に誇らしく思ってもらえる子であろう」と頑張らないといけませんでした。子供の頃からある意味自分を鼓舞しながら生きてきたのです。

 

そのAさんが今回離婚をして、実家に戻ってきたわけですが、それは「人生の失敗」という言葉が象徴するように、「愛情をもらえなくなる私になってしまう」ことを意味し、Aさんにとっては脅威となります。

 

ですから、実家にいても、「ダメな娘」にならないように、無意識に仕事や家事、両親の面倒をしっかりやる、という動きへと駆り立てられるのです。ですが、「愛情を他の兄姉よりももらえない私」と信じている限りは、やってもやっても達成感を感じられませんし、もし誰かがほめてくれたりしたとしても自分の中には響いてもこないでしょう。
そしてもちろん、どんなにしんどくても、どんなに疲れていても、「疲れた、休みたい」と言うことを自分に許すことはできないのです。

 

このような状態の中で、母親の検査入院という出来事は、「ダメな娘」を証明しないようにしないといけない場となるので、Aさんはますます頑張らないといけなくなるわけです。これではますます疲弊が進むため、Aさんが「もうお母さんの状態を見たくない」と思ったり、「もう家から出ていきたい」という思いがでてくるのも理解ができますね。

 

 

フタをしなければいけない理由が見えたら

このように、Aさんがどんなに疲れていても、弱音を吐けないのは、「末っ子の私は、頑張らないと、愛情を与えてもらえない」というビリーフ(またそういう私であるというセルフイメージ)からだ、ということがわかりました。

Aさんが本当に楽になっていくには、「末っ子の私として愛情をもらえる私になる」ことではなくて、Aさんが「このままで存在していても大丈夫なんだな」と思えることですね。

 

ちなみに、これまでに記事でも書いてきていますが、ビリーフやセルフイメージは、経験や刷り込みによって作られた思い込みでしかありません。思い込みなのですが、あたかも本当であるかのように思えるのは、感情―感覚―思いが伴うからでした。
ですから、この思い込みから自由になっていくには、信じるに至ったどんな経験があったのか、そこで何を感じていたのかを問いかけたりしながら、感情―感覚―思いの解体、解消をしていくことです。

 

そして、実体のない思い込みがはがれていけば、自分が信じていたビリーフを怖れ、そのビリーフから逃げる必要がなくなります。そうすると、必ず、Aさんらしい、Aさんの存在やこのままでいいんだなという自分から自分への信頼、安心感も感じることができていきます。

周りの評価や賞賛を得るために動く必要がなくなるので、我慢や無理がない実家での生活や純粋にお母さんを想っての愛あるサポートができるようにもなるでしょう。

 

 


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母ともっとラクにつきあいたい~私はどんな役割を担っているの?それはなぜ?

2020年8月8日

こんにちは!
毎日暑い日が続いていますね 🙂

 

今日は親との関係についてです。

唐突ですが、私たちは誰かとの関係、何かの状況の中で、
ある「役割」を自分のアイデンティティとして生きているものです。

例えば、母親との関係において、

「私は母のお守り役」など。
(ちなみにこのイメージはあまり普段は意識されていなく、「そんな子として当たり前」と思っていたりもします。当たり前と思っているものほど自分では見つけにくいので“気づきの問いかけ“などで探ってみるのを助けてもらうのもよいですね)

 

この役割、セルフイメージですが、
私たちは、自分にとっての「意味づけ」を役割に乗せて、その役割を担うことに邁進しています。
それをやっている理由があるのですね。

 

それをやっている理由がある?
この役割を担うことで何かよいことがある、守られるものがある

ということです。

なので、セッションでは、
・なぜそれをやっているのか?
・この役割を担うことで何がよいのか?守られるものがあるとしたら何なのか?

といったことを問いかけていきます。

 

すると見えてくるのが、
例えば、

・幼い時に亡くなった父との約束として、「お母さんを大事にする」と自身の心に誓ったものだったかもしれないし、

・病弱だった母を支えるために、自分が引き受けなければならない役割だったのかもしれないし
(心の中では自分の生死と同じぐらい(時にはそれ以上に)、母の生死への責任を負っていたりするものです)、

といったことが見えてきたりするわけです。

 

この理由やワケがどういうものであってもよいのですが、
理由がわかると、
無意識に役割に邁進していた状態から、ちょっと立ち止まることができます。

立ち止まることができるというのは、

自分にとってこれらが、

大事にしないといけない、
支えないといけない、
あるいは
大事にすべき、
支えるべき、

といった風になっていないか、

という振り返りの機会となる、ということです。

 

というのは、これらの「しないと」や「べき」は怖れがベースですので、
どうしても緊張を生みだし、
いつの間にか重荷になっていて、相手への不満感という形で出てしまうからです。
(※時には、不満が大きくなると、亡くなったお父さんのせいだと怒りの矛先のすり替えも起きたりもします)
大切にしたい相手なのに台無しになってしまいますね(泣)

 

またさらに怖れベースの「しないと」や「べき」は、
どれだけやっても自分の中にやり足りてない感じや、
達成感を与えてくれません(なおさら重荷感満載、ストレス一杯!となってしまうことでしょう)

 

そういう意味でも、

・役割への意味づけ(理由)に気づくこと、
・心の中での役割の担い方がどんな風になっているのかに気づいておくこと、

はとても大切です♪

そしてさらに、母との関係でストレスフリーになっていくには、

役割を担う上での緊張や
怖れ
(例えば:
・お父さんとの約束を破ると何かがまずい・・・
・病弱な母を支えないと何かがまずい・・・
といった怖れのストーリーがある(ここにも様々な感情や感覚、思いがあります))

を解放していくことです。
(私ですと、これらの感情・感覚の解放に、EFTやマトリックスリインプリンティングなどのセラピーを使っていきまます)

緊張や怖れから解放されれば、
自ずとでてくるのは愛です。

母と私、といったシンプルな立ち位置に立たせてくれますし
この時は、“母”が重たくなく、
「役割」へのこだわりからも解放されています。
当然、私は、愛をベースにした選択、行動をとれます。

 

安心して独り暮らしの母を見守れるし、

疲れているときは、「今度話を聴くね」と落ち着いて伝えることもできる

みたいな感じです。

 

自分もラクですし(罪悪感もでない)、
子供から緩んだ雰囲気が伝わるわけですから、親もきっとラクですよね



さて、今回は母との関係を題材に書いてきましたが、他の関係にも置き換えることができます。
自然体で関ることができるのは、自分も相手も大切にしますね
愛をベースにした交流をしていきたいですね♡

 

 

今日も最後まで読んでくださりありがとうございます☆
暑い日が続きますが、ご自愛の上お過ごしください(^^♪


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