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人間関係の悩み

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人間関係のしんどさを解決する健全な境界線③~自分を大切にしながら相手も大切にできる~

2022年11月3日

今回はこれまでシリーズで書いてきた境界線についての最後の回です。

 

今回も前回と同様に、個別のケースを出しながら、越えるとき、越えられるときに、心の中でどのようなことが起きているのかを見ていきたいと思います。

また最後に、境界線を越えない、越えられるのを許さないために私たちはどうしたらいいのかについても触れていきたいと思います。

 

今回は、相手に言ったり、したりしたことが良かったのか? と気になったり、自分のせいだと思ってしまう時を例に、その時の心の状態について心の仕組みから解説していきます。

 

自分の言ったこと、行ったことを相手がどう考えるか不安に思ってしまう

 

メールやラインを送って、返信がこないことに不安になったことは誰しもあるのではないかと思います。また、自分の発言やふるまいについて、後になって「あれはあの場にふさわしかっただろうか?」とか、「相手は気を悪くしているのではないか?」「相手を傷つけていないだろうか?」と疑心暗鬼になったり、いろいろ詮索してしまうという経験もあるのではないかと思います。

こうしたケースも境界線の観点から見ることができます。

相手がどのタイミングで返信をするのか、相手がこちらの言動についてどのような解釈を持ったり、反応をしたりするのかは基本的に相手の領域のことであり、相手が決めることです。しかし、それらをこちらがコントロールしたいとなってしまうと、境界線を越えることになり、不安や猜疑心などに苦しむこととなってしまいます。

 

例えば、これは私の経験談ですが、ふいに口をついて出た言葉が相手を傷つけてしまったのではないかと思い悩む時があるのですが(それはたいがい杞憂に終わるのですが)、これは、自分が他者の言葉で傷ついてきたという経験があるからなのです。自分が傷ついたことで自分を力ない存在と見てしまい、それを相手に投影するので、相手を自分と同じように力ない傷つきやすい存在として見てしまうのです。自分が気になって考えを巡らせている時、その考えやイメージの中にいる相手は、決まって弱い力ない存在と見えているはずです。ですから、誰かを傷つけないように言葉に気を付けようなどという風な、自分を監視するという動きにもなってしまうのです。

 

このケースで私が、相手がどのような反応をするのか、どのような解釈をもつのかについて、「相手の領域で起きることなので、相手に任せるよ」「それは100%相手の自由だ」と健全な境界線を引けるようになるには、どうしたらよいのでしょうか。

それは、私自身の「他者の言葉で傷ついてきた」という経験を癒していくことです。その時に感じた感情(悲しみや、怒り、恐怖感などなど)や感覚、思いがありますから、それらに向き合って感情解放をしていくのです。なぜなら、これらの感情や感覚、思いが、自分のことを力ない存在と思わせてしまうのですから。感情や感覚、思いが解放されていくと、傷ついていた私から、自分の中に力を感じられる私に変わっていきます。その結果、相手のことも弱い力ない人とは見えなくなりますので、自然と境界線も健全に引けるようになり、無駄に思い悩んだり、自分の言動を見張ることもしなくてよくなるわけです。

 

自分のせいだと思ってしまう

また、なんでも「自分のせいだ」と自分が責任を負ってしまって苦しくなっているというパターンもありますね。こちらが悪気や傷つけてやろうという意図など全くない言動に対して、相手から「傷ついた」と言われたり、責められたりしたときに、それは「私のせいだ」と自分が相手の感情の責任を引き受けてしまうケースです。

 

相手が「傷ついた!」と怒っていたとしても、その感情の責任をとれるのは(感情のケアができるのは)、基本的に相手本人です。なぜなら、怒りなどの反応を生み出すものがその人の中にあるからですね。例えば、相手がトラウマなどでの傷がある、あるいは、たまたまその時何らかの事情で不安や焦りなどがあったのかもしれません。そして、そのケアをしたり、向き合ったりすることができるのは、その人です。

他の人がするべき仕事の責任を負ってしまうと、今度は自分が窮屈になったり、不満がたまってきて、関係そのものがぎくしゃくし始めて、難しいものとなってしまうことでしょう。

 

このように誰の領域で起きていることなのか、その責任をとれるのは誰なのかを見極めることはとても大切になってきます。どうしても「自分のせいなのではないか」と境界線があいまいになって引き受けそうになってしまう場合は、今度は、健全な線引きを難しくさせるものは何なのか、自分を力なくさせるものは何なのかを自分の中に探っていくとよいですね。

 

まとめ~健全な境界線をひけるようになるためには~

前回、今回といくつかの個別のケースを挙げながら、越えるとき、越えられるときに、心の中でどのようなことが起きているのかを見てきました。

 

境界線は目に見えるものではないですし、断れば境界線を引けましたとか、何かの行動をしたら引けていませんとかといったようなものではありません。つまり「行動」ではなく、自分の中で、精神的な軸や自立があるかどうか、に依るのです。

 

自立ができにくくなるのは、「自分には力がないのだ」と信じているからで、それはなんらかのトラウマや傷つきの体験が原因となっています。ですから、健全な境界線を引くためには、そのトラウマや傷つきの体験を癒して、低まってしまった自己価値を回復していくことが大切です。(具体的には、これまでの記事でも書いていますが、経験は、感情―感覚―思いで構成されていますから、それらの解放をしていきます。前述の「他者の言葉で傷ついてきた」という私のケースも参考になるかと思います。)

 

 

今シリーズ最初の回でトマス・ゴードン博士の

「健全な境界線の境界は、通り抜けができるぐらい浸透性があり、危険物は閉め出しておける程度の強度がある」

という言葉を引用しました。

自分に力を取り戻していくことで、このような境界を、状況、状態ごとに柔軟に設けることができるようになります。そしてこの境界は、愛や信頼がベースの境界なので、自分も尊重しますし、相手も同じように大切にすることができます。このような精神的に自立した者どうしが、お互いに関わり合い、刺激をしあっていける関係を築いていきたいですね。

 

 


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人間関係のしんどさを解決する健全な境界線②~自分を大切にしながら相手も大切にできる~

2022年10月23日

今回は前回からの続きの境界線についてです。

前回は、私たちが自分の中で起きていることに責任をもてるかという精神的な自立が、健全な境界線を引けることに関わっていることや、それを難しくさせる理由として、自我の性質と人生の中での傷つきについて解説してきました。

 

今回と次回は、いくつかの個別のケースを出しながら、越えるとき、越えられるときに、心の中でどのようなことが起きているのかを見ていきたいと思います。

 

また、次回の最後には、境界線を越えない、越えられるのを許さないために私たちはどうしたらいいのかについても触れていきたいと思います。

 

今回は、DVなど自分を傷つける人と関係を切ることができないケースと、親の過干渉で自分で決めることができなくなった子どものケースを題材に、健全な境界線を引きにくくさせる理由を心の仕組みから解説していきたいと思います。

 

自分を傷つける(DVなど、言葉や身体的な暴力、虐待)人と関係を切れない

親子関係や夫婦関係において、傷つけられているのにその関係を断ち切れず、その関係の中にとどまり続け苦しむというケースについてです。

 

この時、傷つける側、そして傷つけられる側の心の中ではどのようなことが起きているのでしょうか?

 

傷つけたいという衝動の奥にあるのは「自分には力がない」という思い

最初に、傷つける側を見ていきましょう。

 

相手を傷つける態度として現れる形の例として、

 

・相手に自分の思いどおりの行動をさせる
・自分と違う考え方、意見などを持つことを許さない
・相手が離れようとすると、離れていかないように、相手の怖れを刺激して(脅しなどはその例)相手を支配下に置き続けようとする

 

などがあります。

 

また、傷つける側は、「お前が悪い」「お前のせいだ」「お前がわかっていない」と口汚くののしったり、攻撃をし、相手の領域を越えてきます。

 

私たちが、相手を攻撃する時というのは、私たちの中に何らかの感情、感覚、思いが抑圧されている時です。そして、それらを刺激されるような事態が起きると、自分を守るために(抑圧している感情、感覚、思いに向き合わないために)、攻撃という形を取るのです。

例えば、自己肯定感の低い夫が、ある朝、Yシャツにアイロンがかかっていないことを見て烈火のごとく怒ったとします。これは、もともと自分の中にあって触れられたくない「自分の願いは受け止めてもらえない」といった傷があるからなのですが、それに向き合おうとせずに、反対にそれを刺激した犯人を外に探して(投影)、「自分をないがしろにしているからだろ!お前が悪い!」と問題のすり替え(防衛・攻撃)をしているのです。

 

トラウマや傷つきによって自己価値が低まっていると、「自分には力がない」というものがベースになりますから、自分の中にある様々な怖れや不安、不全感、欠如感といったものに向き合うなど、怖すぎてできないものです。ですから常にすり替えをして、誰かのせいにする必要があったり、相手や周りを服従させたりすることによって、自分の不全感、欠乏感を埋めるということをしなければいけなくなります。これは、自分の中で起きていることへの責任を持つことを放棄しているのです。そのことに心の深いところではうっすらと気づいているのですが、無力な自分ゆえに、それをどうしたらいいのかわからないので、誰かや何かのせいにしないとやっていけないのです。

 

このように、私たちの心はいつも抑圧→投影→防衛・攻撃という仕組みで動きます。

それゆえに、傷つける側は、いつも攻撃の対象を必要とするのです。

 

傷つけられる側の中にもある「自分には力がない」という思い

では、一方の傷つけられる側の心理はどうなっているのでしょうか?

傷つけられる側の人たちがよく思っていることは、「誰も助けてなんかくれない」ということです。自分のことを「無力で小さな自分」と見てしまうので、外に助けを求めるという発想自体がない(という世界観を持ちやすい)のです。ゆえに、たちまち境界線を越えられることを許してしまいます。

さらにひどいときには、越えられていても、むしろ「私が悪いからそうされて当然」、「私は尊重される資格がないのだから」「私は悪い人間だから」と自己卑下をベースにして相手の行為を正当化したり、「相手の役に立てている」「私がいないとあの人は生きていけないから」と自身の不全感を埋めるために、無意識にこの関係を利用したりもします。

 

このように、傷つけられる側にも、傷つける側と同じように、怖れ、無力感、不全感、欠如感があるのです。

自分に価値があると思っている人は、こちらに非がないのに暴言を吐かれたり、暴力を振るわれたりしたならば、それは相手の問題だ、相手がおかしいと、きちんと切り分けができて、自分の領域の中に留まることができます。

 

この傷つける・傷つけられる関係は、一見、傷つける側が力を持っているような関係に見えますが、いずれも、「自分には力がない」という思いをベースに惹かれ合っている関係です。お互いに精神的に自立しているという感覚が薄いため、共依存となり、どちらかがこの関係から抜け出すというのは、なかなか難しいものになってしまいます。ですから、はたから見て離れた方がいいと思える関係であっても、本人たちはその関係にとどまり続けてしまうのです。

 

親の過干渉で自分で決められなくなった子ども

最近は、過保護、過干渉の親のことを「ヘリコプターペアレント」と呼んだりします。子どもがつらい思いをしたり、不安を感じたりしないようにと、先回りをして、子どもが解決すべき問題、子どもが考えて判断したり、決断したりする事柄を全て引き受けようとするのです。こうした親子関係では、親が境界線を越え、子どもが越えられる立場となります。

 

「あなたのためを思って」「あなたのためだから」「私の言うことを聞いておけばいいのよ」という言葉は、過保護や過干渉な境界線を越えている親からよく聞かれる言葉ではないかと思います。

 

親子ですから、愛情で結ばれている関係ではありますが、実はこれは、親自身の中にある「他人の目にいい親と映っているだろうか」「子どもの能力を伸ばせない親と思われていないか」「親失格と思われないか」といった子育てへの不安や自信のなさを、子どもを使って解消しているのです。子どもが考えたり、判断したり、決定したりという精神的な成長の機会や可能性を奪うとしたならば、一見愛情をベースにした言葉がけや行動に見えたとしても、それは、境界線を越えた対応と言えるでしょう。

 

一方で、過保護や過干渉な対応を受けて育った、つまり境界線を越えられて育った子どもはどんな風になるのでしょうか? 一つケースを見ていきましょう。

 

Aさんは、30代前半の女性ですが、小さい頃から習い事などでは何を習うのか、どこで学ぶのか、どの学校に行くのか、何を着るのか、どういう友達と付き合うのかなどをすべて母親が決めてきたと言います。先んじて色々なことをやってもらえた分、楽ではあったのですが、一方では自分がどうしたいかをわからなくさせられている感じがずっとあったとのことです。

 

そんな彼女は大人になった今、相思相愛の相手と出逢えたのですが、いつもどこか相手のことが信じられなく、自ら関係を壊したくなってしまう、という悩みを抱いています。

 

Aさんのように過保護や過干渉な環境で育った子供は、いつもどこか「理解されていない」「わかってもらえていない」「人は自分の思い通りに人を動かす」といった不満を抱えたり、「自分が信頼されていないのではないか」といった自己不信を持つことになります。さらに自分自身で何かを成し遂げたという経験が少ないので、自信も育ちません。

 

そして、これらの自信の欠如や不満感の蓄積は子どもの心の中で無力感を深め、自分で自分の人生を選んで決めている、「自分が自分を生きている」という感覚を弱めてしまいます。それにより、自分の領域はここからここまで、という風に境界線を引くことを難しくさせるのです。特に愛情が絡む関係であると、境界を越える親の行為を愛情だと勘違いするために、なおさらわかりにくくなります。

 

その結果、
・自分が何が好きなのか、本当は何がしたいのかがわからなくなる
・何かを決めたり、判断したりするときに怖くなってしまう
・相手を試して、本当に大丈夫だと思えない限りは判断や行動がしにくくなる
・誰かの判断をいつも仰ぎたくなる

ということが起きることになるでしょう。

 

Aさんが今、パートナーと関係を深めていくにあたって、抵抗感がでてきてしまうのも、理解ができますね。

 

 

今回は境界線を越える、越えられるのを許すことで起こる共依存の関係をパートナーシップと親子関係を例に解説をしました。

次回は、相手に言ったり、したりしたことが良かったのか? と気になったり、自分のせいだと思ってしまう時を例に、その時の心の状態について見ていきたいと思います。

 

 


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人間関係のしんどさを解決する健全な境界線①~自分を大切にしながら相手も大切にできる~

2022年9月15日

今回から、新しいシリーズとして、境界線について書いていきたいと思います。

健全な境界線が引けると、おおかたの人間関係の悩みが解決すると言われているほど、円滑な人間関係を築いていくことと、健全な境界線が引けるかどうかとは密接な関係があります。

今回は、まずは境界線とは何なのか?を理解します。その上で、次回からは2回にわたって、健全な境界線を引けない場合、どんなことが起きているからなのか?を心のしくみから見ていきたいと思います。

 

境界線って何?

まずは、境界線とは何なのか?を見ていきましょう。

 

国語辞典「大辞泉」には、「境界線とは、土地のさかい目の線。また、物事のさかい目」とあります。

 

例えば、空間や土地などは、契約や登記といったルールによって線引きされた形として、壁があったり、塀や線があったりして、境界線がわかりやすく存在します。

また、物事のさかい目は、例えば、扇風機とサーキュレーターは、モーターで動いているという点は共通ですが、人の体に風をあてて涼しくさせるという目的と、一方は空気を撹拌するためのものといった風に、「目的の違い」によって、境界ができるわけですね。

 

つまり、このさかい目は、区分線や境界線が自然にあるわけではなく、何らかのルールや定義、基準によって「どこまでがこっちのもので、どこまでがあっちのものなのか」が明らかになり区別され決められるということです。

また、一旦、区別され、境界ができると、境界線で区切られたそれぞれの所有地(エリア)で起きることについては、各自が責任を持つことになります。自分の庭の芝が枯れそうになれば、自分が水や栄養を与えたり、芝が伸びれば自分が刈り取って整えたりするようにです。

そしてこのように各自がそれぞれの所有地(エリア)で責任を持てている限り、関係性は安定的なものとなります。

 

人間関係で境界線を決めるものとは?

これを自分と他者という関係に当てはめることができます。

自分と他者との間の境界はどのように決まるのでしょうか?

 

それは、

 

「感情や思いといった各自の中で起きることについて、どこまでが私のもので、どこからが相手のものなのかが見極めること」によって決まってきます。
 
「見極める」というのは、「それらに責任が持てるのは誰なのか? コントロールできるのは誰なのか? がわかっていること」

と言ってもよいかと思います。

 

つまり、自分と他者との間で健全な境界線がひけるのは、

 

「自分の中で起きることについて、それらに責任をもてると思えているかどうか、コントロ―ルすることができるのは誰かがわかっている」時である

ということです。

 

境界線に関する私の事例

私もこれまで(そして、今でも!)、たくさん境界線を越えたり、越えるのを許してきたりしました。

 

私が境界線を越える事例

私には、姪っ子がいるのですが、彼女は、部活道以外に書道やダンス、楽器の演奏に取り組みながら学生生活を送っています。
その彼女に対して、「学校の勉強は大丈夫?ちゃんとやっている?」とついつい電話口で確認したり、発破をかけたくなってしまうのです。しかしながら、どういうペースで勉強を進めていくのかは、本来、姪っ子の所有地(エリア)のことで、彼女が決めることです。それなのに、「おばちゃんの言うとおりにやった方がいいよ」とか、「勉強以外のことも大切だけど、勉強もコツコツとやらないとダメだよ!」などと私のやり方や提案を押しつけたとしたならば、それは、境界線を越えることになります。

 

また、もう一つ、越えた例として、今でも苦笑いしながら思い出すことがあるので、そちらもご紹介しますね。

 

それは、イギリスにいた2010年頃だったと思うのですが、その頃はまだまだ不安感が強くてパニック障害の症状も出たりと不安定な状態で過ごしていた時期で、週に1度カウンセリングのセッションに通うのがルーティンとなっていました。そして、そのカウンセラーさんが何かの講座をされるということで、そちらに参加することを決めたのですが、会場がロンドンから電車で数時間という場所でした。乗り物恐怖がある私は、当然不安感で一杯で、特に日本と違って接続が悪いイギリスでは、どうやったら混まない電車に乗っていけるだろうとそのことばかり考える毎日です。

いよいよ講座の日が近くなったあるセッションの日に、私がしたことは、頼まれてもいないのに、講座の時間に間に合う電車の時刻表をリスト化したものをカウンセラーさんに渡すということでした。もしかしたらカウンセラーさんは前乗りで前日から現地に向かうかもしれないですし、電車でなく車で向かうかもしれないですし、いつどうやって行くのかを決めるのは、カウンセラーさんなのに!です。

ですが、その時は、不安でしょうがなく、その不安感に本当の意味で気づいていないので、それを相手に投影し、「相手も電車でスムースに行けることを望んでいるのではないか?」と勝手に想像して、作った時刻表を渡すということをしてしまうわけです。自分の不安感からこのような行為をしているとは全く気がついていないので、むしろ「親切なよい行いができた」とまで思っているぐらいでした(笑)。その時刻表をどうされたかはわかりませんが、恐らく「境界線を越えられたな」とカウンセラーさんは気づいていたと思います。

 

しかし当時もし自分が「私が不安なんだな」と気づいて、その不安感に向き合ったり、解消したりしてケアすることができていたら、全く違った行動になっていたことでしょう。

このように、私は私の中で起きた不安感について責任を放棄した結果、境界線を越えるということになってしまったのですね。

 

越えられるのを許す事例

心のことをやっていたり、自分を見つめましょうといったことを発信していると、私が「全部癒されていて、楽に生きているのではないか」と思われたり、言われたりすることが時々あります。しかしそんなことはありません。私なりに、悩みがあったり、自分を見つめるためのネタにはことかきません。

ところが、もし私が、相手の私への解釈やイメージを壊さないようにといかにも「楽に生きている私でいるように」と頑張ったり、無理をしたとしたなら、それは「境界線を越えられることを許した」ということになります。

反対に、「この解釈やイメージは、相手の中(所有地)で起きていることだな」と気づいて、私は自分の所有地(エリア)からは出ていかなければ、相手がいわば勝手に(!^^)抱いた解釈やイメージについてもリラックスした対応ができます。それは、例えば、懸命に否定することをしないとか、逆に相手のイメージに合わせようとしないといったようにです。

 

バイロン・ケイテイの三つの領域と境界線

スピリチュアルティチャーのバイロン・ケイテイは、私たちには三つの領域があると言っています。

それは、

・私の領域

・彼・彼女の領域

・神の領域

 

です。

ちなみに、神の領域というのは、天候、自然災害、事故、社会現象といった、個人の力の及ぶ範囲を超えた領域のことを指しています。

 

それぞれの領域を越えようとするとき、私たちは、苦しみを感じます。

 

例えば、今雨が降っている状況に対して、「晴れてくれないと困る!」と神の領域で起きていることに対して闘おうとすると、決して勝つことはできないので、自分を天候の犠牲者と感じて苦しくなってしまいます。

あるいは、母親が、娘が結婚をしないことをいくら心配しても、いつ誰と結婚するかは娘が決めることなので、母親はストレスに感じて苦しむことになりますし、娘の中にも結婚に対する焦りなどがあった場合は、母親からのプレッシャーはやはり苦しみとなります。

 

私たちは、自分の中で起きることについて、それらに責任をもてると思えていて、コントロ―ルすることができる(何かを選択したり、決めたりすることができる)のは誰なのかがわかっていると、「雨が降っていること」、「娘がまだ結婚をしていないこと」、「母が心配をしてあれこれ言ってくること」は、心地は良くないかもしれなくても、苦しみにはならないのです。

 

自分の領域(所有地、エリア)の中に留まることがもたらすもの

健康な境界線を引くことができると、犠牲者、加害者というものが出現しないので、3つの関係性が安定します。

 

それ以外にも、次のようなことがもたらされます。

・自分主導で、自分が自分の人生を所有、生きているという感覚をもてる
 
・他者や何かに依存せずに、自分で自分の問題、人生を管理していると実感できる
 
・自分の能力がわかっており(自分が何ができ、何ができないかがわかっている)、その範囲内において自由や可能性を行使したり、楽しんだりすることができる
 
・自分と他者を優劣で見ず、愛や信頼をベースにした互いに尊重し合う対等な関係で関わることができる

 

境界線を越える例、境界線越えを許す例

逆に、領域の中に留まることができないときに起きることを、越える場合と、越えられることを許す場合とで、例を挙げてみたいと思います。

 

境界線を越える例

・私が幸せになれるためには、あなたが必要
 
・私の思い通りに動いてくれたら私は安心、幸せ
 
・私があなたの代わりに決めてあげる、やってあげる
 
・私の都合やニーズに合わせてちょうだい
 
・誰かのためにやってあげることで自分の価値が上がる、保てる
 
・私が希望するやり方で私を認めて

 

境界線越えを許す例

・自分で決めない、相手の都合や希望に従う
 
・自分は我慢する、自分の都合やニーズを抑圧する、断れない
 
・波風が立たないように、このまま自分が黙っていたり、何もしないでおこうとする
 
・決めれられてしまうのは嫌だが、自分で考えたり動いたりしなくていいので楽だと思う

 

境界線を引くことを難しくさせるもの

それでは、健康な境界線を引くことを難しくさせるものは何なのでしょうか?

自我という性質

以前の記事でも書きましたが、私たちの根源には、本質(ありのまま)から離れてしまったという“誤解”があり、そこから生じる、怖れや不安、欠如感といったものが、いつもあります。それゆえに、根源的に、自分のことを小さい存在、無力な存在という風に無意識的に思っていたりするのです。

 

人生の中での傷つき

そんな元々の性質をもちながら、人生を歩む中で何等かの傷を負った場合、自己価値が低まり、さらに小さい私、無力な私を強化してしまうでしょう。すると、そんな私にとっては、自分の領域の外のものを使って、自分を満たしたり、安心したりできるのではないか、という思いをさらに強めることになります。

これは、境界線を越える場合は、自分の領域外のものを自分の思い通りにして一時の優越感や満足感を得たいといった衝動やふるまいとなりますし、境界線越えを許す場合は、最初から従って、事を荒立てないことで安心感を得たいという風になります。

ですが、無力な私という思いを出発点にして、自分の領域外のものに依存するという意味では共通です。

 

このように、元々の自我という性質と、さらに人生の中での刷り込みや経験などで自己価値が弱められた結果の、「自分は小さくて無力な存在」という“誤解”を信じている私にとっては、いつも何かに依存していなければならないので、境界線を引いて、自分の人生のイニシアティブを握るということは難しいものとなってしまうのです。

 

ですが、これは裏を返せば、自分から自分への誤解を解いていければ、自然と健康な境界線を引いていくことができるということでもありますね。

 

 

まとめ

人間関係についての著書で有名な臨床心理学者のトマス・ゴードン博士は、健全な境界線が引けるとその境界は「通り抜けができるぐらい浸透性があり、危険物は閉め出しておける程度の強度がある」と言っています。

 

越える、越えられることを許す例を出しましたが、自分から自分への誤解を解いて、ゴードン博士の言うような健全な境界線が引けるヒントとなるように、次の回からは、越える、越えられるときにどのようなことが起きているからなのか? を個別のケースを出しながら見ていきたいと思います。

 

 


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人間関係での距離感をどうとればよいかわからない

2020年8月14日

こんにちは!
今年のお盆は帰省せずに、都内におります。それにしても毎日暑いですね。。。

 

さて、人間関係、人付き合いでの悩みというのは、セッションでも多くでてくるテーマの一つですが、

 

今日は、

人とのつきあいの中でどんな距離感でいたらいいのかわからない、

といった悩みについてです。

 

もしかすると相手は、

・自分を十分に受けいれていて、むしろもっと仲良くなりたいと思っているかもしれないですし、
あるいは、
・今の付き合い方、関係性が楽でいいなと思っているかもしれません

なのに、

「距離感がわからない」という思い・解釈があれば、
その思いを通して相手との関係性を見、
「距離がわからない」という私が厳然といるような感じがするので、

 

反応として、

・本当はもっと親密になりたいけれども、どこまで踏み込んでいいのかわからない

・親密さが増してくると、怖くなって自分から離れてしまう、避けるような行動をとってしまう

・こんなことを言ったら相手がひかないかな、怒ったりしないかなと気になってしまう、遠慮してしまう、本心を我慢する

・変に身構えてしまったり、こう思っているのではないか?と勘繰りまで入れてしまう

・相手に従っておけば去ったり、離れたりしないだろうから、相手や相手の意向を常に優先してしまう

 

といったことを感じたり、行動をとったりして、

無理のない、自然な付き合いや交流というものからかけ離れていってしまいますね。

 

「人との距離がわからない」という思い・解釈から始まった行動や戦略は、
自分の本心やハート(自分がどうありたいか、どうしたいか)をわからなくさせ、
つぶしたままにしますので、
不満や怒りもたまっていきます。

いつかは爆発して相手にぶつけてしまうか、
この不満感や怒りを感じたくないので(持っているのはつらく疲れてしまったりもします。また、いつまでも駆け引きをやり続けるのは自分にとっても、相手にとっても、徒労となります)、
もうそれなら人付き合いはいいや、一人がラク・・・なんてことにもなってしまう
本心はそうは思っていないのに。。。孤立感が高まるばかりです(泣)

 

 

しかしながら、
本当に楽になっていく方向は、
人とうまくやっていく戦略を探したり、コミュニケーションスキルを高めたりすることではなく、

どうして「距離感がわからない」ということになっているのか?を
自身の心の中に見ていってあげることですね。

 

それは例えば、

幼少の頃に、ニグレクトや虐待などのトラウマ体験があったり、

いつも兄弟と比べられていて親からの愛情を十分に感じられなかったとか、

親同士の仲が非常に悪く、安心安全な感覚が培われずに「人」への投影(人はいつ危害を加えるかわからない存在だ などといったビリーフを持つことになった)

などといった体験からきているのかもしれません。

 

私は今では、以前に比べるとずいぶん人とラクに関われるようになりましたが、
祖母と母との関係で緊張感がある家庭にいたりしたので、
人への信頼が持ちづらく(相手がいつ怒りだすか分からない)、
またそんな中でも対応ができるという自分への信頼も持てない
そんな思いを人や関係性に投影するので、人との関わりは恐る恐るといった風にもなってしまいます。

 

またある方は、
幼少期に「あなたのお父さんはあなたより弟の方を愛しているのよ」と親戚に言われた言葉が、ご本人にはとてもショックな言葉となり、
「ものすごい断絶感でした」とおっしゃっていることからもわかるとおり、
お父さんとの間に生じた「断絶感」をその後の人間関係に投影し、
人との関わり方がうまくいかなくなったという方もいらっしゃいます。

 

「人との距離感がわからない」という思いを抱かせることになった体験は人それぞれいろいろあると思いますが、
これらの体験の中にあるのは、
細かくみていくと、
それは、その時に感じた感情や感覚、思いです。

家庭の中や、向けられた言葉によって、
身体に取り込んだ緊張感、恐怖感、不安感、怒り、悲しみ、無力感、絶望感などなどです。

一旦取り込んだもの、体験したものは、もう動かない、このままだろうと思いがちですが、
セラピーを体験された方は経験済みかと思いますが
これらの感情や感覚、思いに寄り添い、感じ、解放をしていくと、
ちゃんと変わっていきます。

 

さて、もともと哺乳類の私たちは、つながりの中で生きている社会的な動物です。
関わりや交流の中で存在する、というのがそもそも自然な姿、状態なわけです。

そういう意味でも、
関わりを難しくさせているもの、自然な流れを阻むものに気づいて、
どんな傷つきがあったのか、
そこでどんなことを感じ、どんな思いを抱いたのか、
を見ていくことが自分にとっての自然な状態に戻っていく道だなと思うのです。

 

「人との距離感がわからない」という投影(思い・解釈)から抜け、
「自分にとっての心地よい自分」という、そんな自然な姿、状態のときに、
関わる人や社会は怖いものとは映りません。

その中では、さらに自分らしさ、パッション、創造性を開いていけることでしょう。
そんな人たちが有機的に関われる社会、いいなぁと思いませんか?
そしてそれにはまず私の中から♡ですね 🙂

 

今日も最後まで読んでくださりありがとうございます☆


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相手や状況を変えたくなったら ~そこからラクになるには?~

2018年11月22日

相手や状況を変えようとしている時
相手が〇〇をしてくれていない、状況が〇〇だったらいいのに、と不満がでてきている時

ちょっと立ち止まってみるといいよ

そして自分の心の中を見てあげよう

 

何かに不安感がない?
緊張がない?
こうしなきゃ、こうでなきゃ、こうあるべき、っていう思いにとらわれていない?
我慢してない?
本当はやりたくない、できない、っていう小さい声が隠れていない?
心細~い感じが本当はあったりしない?

そこに気づいてごらん

そこに気づくと

体はどうなるだろう?

気持ちはどうなるだろう?

 

ふっと力が抜けた感じがしない?
ほっとしない?

なぜなら本当は私が気づいてほしいのはこの感情たちや感覚たちだから

 

気づいてあげると

不安や緊張があるのに、

どうして頑張っているのか?、我慢しているのか?
その理由を私が教えてくれるよ

 

それが私が私を理解すること

私が私をケアすること

私が私を愛すること

 

そして、それは、相手や状況から苦しめられる私から、

相手や状況に何も影響を受けない私へと変わる瞬間

その時、一番ラクな自然な私がただいる、ある よ♡


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セッションの効果 ブログ 心のしくみを理解し安心をとりもどす

職場の人間関係がラクになった~セッションの感想~

2017年5月6日

セッションのご感想をいただきましたのでご紹介します♪

オープン・アウェアネス・ダイアローグ(OAD)のセッションについて、すごい!です!とおっしゃっていただきました。

投影だったとわかることで、自分を攻撃しなくてよくなる、相手を悪者にしなくてよくなる、人生は自ずとラクになりますよね♡

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☘今回のセッションを通して、気づいたこと、感じたこと、理解できたことなど、ありましたか?また、何か変化はありますか?

OADセッションを受けての率直な感想ですが、OADすごい!です!
手品の種明かしをされたような気分でした。

もちろん、「種明かし」はいい意味で、
投影という手品によってわからなくなっていた、自分の抑圧されていた思いを見事に種明かししてもらったという意味です。

 

私はこれまで、周りの人から“攻撃”されることを恐れていました。

周りの人の話についていけないという状況に遭遇すると、

「自分はついていけてない」という自分責めや、「自分が素直じゃないからなのではないか?」という自分分析や自分変革をしなければいけないのでは?という思いにとらわれたり、周りに対しても批判したくなる気持ちがわいてきていました。

でもセッションを通して、それは、

「(一般的なことを)何も知らない人」「常識のない人」と自分のことを思っているということがわかり(もちろん、そんな自分を快く思っていませんので受け容れていませんでした)、この思いを通して周りを見ていたんだ!ということに気付けたのです。

これでは、自分が知らないことを話して盛り上がっている人たちが、自分を受け入れていないように見えて当然です(*^^*)それを私は“攻撃”と捉えていたんですね。

 

また、別の回では、職場の女性とうまくいかないことをテーマにセッションを受けました。

この女性が、

距離を置いているように見えたり、
避けているように思えたり、
話さないようにしているように見えたり、
興味がないように見えたり

どうしても相手に問題があるようにしか思えませんでした。

 

けれども、フタを開けてみると、

自分自身の中で、

「エロい人やいやらしい人は危険だ」と思っていて、
私は「危険な人」と思われないようにしている

自分自身の中にある思いだと気づいていないと
エロい、いやらしい人を前にしたら危険ですから、この女性は、

距離を置くでしょう、
避けるでしょうし、
話さないようにするでしょうし、
興味がないようにするでしょう

でも、これは私の「エロい人やいやらしいのは、危険」という思いを通してみているから!投影ってすごいです!!

そしてこれは、さまざまな別の要因や過去の出来事が絡んでいたということも見えてきました。

小さい頃、テレビで少し刺激の強いものが映ったときの、親や周りの「見てはいけない」「話題に出してはいけない」といった反応、そして、マジメで、悪いことやズルいことに手を出してはいけないといった暗黙のルールや価値観。

そういったものが絡み合い、周りをよく察する私の気質・性質も相まって、知らず知らずのうちにバレるとマズイ、見て見ぬふりをしようといったところまで落とし込まれていったのだと思います。

けれども、今は、自分の中で何を否定していたのか、またそれがどこと関連していたのかがわかれば自分に素直に生きられます。

また、自然と私の認知が変わっていっています。

「一般的なことを知らなくても、てへぺろな感じでいいのかも」
「そもそも”一般的“って何?」
「エロいことなんて誰でも考える、自分の欲求を認めてもいい」

こんな風に、認めていこう、受け止めていこうという気持ちに変わりつつあります。

(OADのセッションで、自分の深い潜在意識にあった強く信じていた思いが見つかると、こんなに我慢して抑えつけていたんだと思うと、なんかかわいそうで、ごめんねという気持ちが自然と出てきました。)

また、実際にテーマで扱った状況や人に出くわしても、ハラハラしたり、怒りを感じることも減ってきました。

相手や状況に振り回されずに、自分の力で変えられる、そんな今までになかったような選択肢を手に入れられたように感じています。

 

下田屋さんには3回という短い間でしたが、大変お世話になりました。
言いにくいなー、受け入れがたいなーと思える思いや、自分像も、私の中からでてくるのをじっくりと待ってくれました((セッションの中で、自分自身で答えを言わされるハメになりました(←無理矢理、とか、強引に、という意味ではありません。ちょっと、あくまで面白おかしく書かせていただきました^^))。

ひとつひとつのセッションの後には、私自身の中で起こっていたこと、
どういう投影が起こっていたのかということも解説や復習をしてくださったり、変化も丁寧に確認をしてくれます。

癒しの世界は深いなあと感じる次第です。

自分の中で「出してはいけない」とぎゅっと抑えていたものをもっともっと受け入れ、

またもっともっと自身の癒しと学びを深めていきますので、今後ともよろしくお願いします。

本当にどうもありがとうございました。

 

男性 Nさん