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11月 2021

ブログ 不安なときの対処方法 乗り物恐怖 会食・嘔吐恐怖 その他恐怖症 心のしくみを理解し安心をとりもどす

今の自分にOKが出せない理由

2021年11月19日

自分自身を振り返ってみても、私たちは、今の自分にOKを出すことが難しく、自分の足りないところを埋めようと、知識やスキルをつけようと懸命になったり、解決策を見つけようと必死になったりしがちです。でも、いくらそれをやってみても、本当の意味での安心感は得られません。
どうしてそんなことが起きるのでしょうか?そして、本当の安心感を得るには、どうしたらいいのでしょうか?

 

思い込みを強める「怖れ」の正体

たとえば、あなたが、「自分は気がきかない」と心の深いところで信じているとしましょう。

この思いを信じているあなたが仕事をする場合、どのような行動になるでしょうか?

 

・抜けがないように気をつけようとする

・機転がきく部下が気になってしまう

・全ての仕事の依頼を引き受けようとする

・困っている人がいないかいつも周りを気にしている……などをするかもしれません。

 

この行動へと向かわせるのは、潜在意識にある「自分は気がきかない」という思い込みです。思い込みなので、事実ではありません。事実は、「私がオフィスのデスクに座っている」「私が〇〇の仕事をしている」「私が△△のプロジェクトに関わっている」といったことです。一方で、こうした思い込みを信じ込む背景には、私たちが持つ「怖れ」の存在があります。この怖れの正体は、実は「死」なのです。

 

この「死」には、2つの種類があります。一つは「肉体の死」もう一つは「精神の死」です。肉体の死とは、文字通りに肉体を失うことで、現在の先進国では、動物に襲われたりすることはない反面、かなりの部分は経済的に食べられなくなってしまうことを指しています。精神の死は、仲間から受け入れられなくなったり、評価されなくなり、自分の存在価値がなくなったと感じて精神的に死ぬことを意味します。

 

気がきかない、ということは、仕事を失って稼げなくなって肉体的に死ぬことにつながりますし、役に立てず、評価を失って精神的にも死ぬことにつながります。ゆえに、気がきかない状態から脱出したい、そう思われることを避けたいと、必死になるわけです。

 

 

消えない不足感、不安感を埋めるために私たちがすること

「死」への怖れによって「気がきかない私はだめだ」という自己否定は強められ、これがないから幸せではない、これが手に入るまでは自分を認められない、といった「不足のストーリー」も生まれます。

 

・なぜ自分はできないのだろう。もっと自分に能力があったなら→資格を増やそう

・なぜこんな会社を選んじゃったんだろう。もっと自分にあった会社があるのではないか→転職活動をしようか

・もっと上司が評価してくれる人だったらよかったのに→部署変えを申請しようか

・マウントをとらない部下だったらよかったのに→あの部下とはあまり付き合わないようにしよう

・・・・・・

 

などなど、自分や相手、状況に対する不満や要望は数えだすときりがありません。

 

しかし、根本に怖れがある限り、「私は気がきかない」という思い込みから抜け出すことができないので、このようにいくら不足感を埋める行動をしても、自分では満足感や達成感を得ることができず、常に不安感が消えずに、やがて疲れ果ててしまいます。

 

 

「怖れ」から「愛」に

こうした不足感や不安感から抜け出して、本当の安心感を得るには、どうしたらいいでしょうか?

 

大切なのは、出発点を「怖れ」から「愛」に変えてみることです。それにより、間違った解釈に立った思い込みから抜けだすことができます。

 

もし「死」への「怖れ」がなければ、つまり気がきかなくても、肉体的にあるいは精神的に絶対に死なないと保証されているとしたならば、私たちはどんな風に職場に存在し、どんな行動をとるでしょうか。

 

おそらく、仕事を失わないように、や、評価を失わないようにといった視点の行為から、より「私はどうありたいか」の視点に変わるのではないでしょうか?

例えば、なぜ私はこの仕事と関わっているのかといった自分のビジョンや、このプロジェクトに携わる動機やミッション、情熱、といったことが、立ち現れてくるかもしれません。相手中心の状態から、自分主体の状態へと、変化が起きてきます。

 

 

「愛」の感覚を思い出す

ここでちょっと、「怖れ」がない状態をイメージしてみたいと思います。

 

すごく感動したり、気持ちが動いた瞬間、映画や本、芸術、食べ物などに感銘を受けた時、心を奪われるような景色や情景に触れた時のことを覚えていますか?

その瞬間、身体はどうなっていたでしょうか? 何をとらえていたでしょうか?

 

周りの音が耳に入ってこないくらいに全身でその瞬間にただいたかもしれないですね。

頭の中が真っ白、言葉を失うぐらいの何かが体を充満していたかもしれないですね。

 

この時、思考はうるさく何かを語っていたでしょうか?

怖れや欠如感がこの瞬間、存在していたでしょうか?

 

おそらく思考が限りなく鎮まっていて、ただその感動や感銘が体を通した感覚として経験されていただけではないでしょうか?

 

素晴らしくて細胞が目覚めるような感じ

わぁ~とため息が漏れるような、圧倒されるような感じ

 

などのように。

 

この限りなく思考を通さない、ただこの感覚の連続の経験、またそれを経験することができる部分が私たちの中にある、私たちそのものであるということを思い出し、そちらをベースにしてみるのはどうでしょうか?

 

苦しければ苦しいときほど、命なき命を生きる状態から、この命の輝き、生命の流れそのものであるということを思い出したいと思うのです。

 

 

イエズス会の司祭であり心理療法家でもあったアンソニー・デ・メーロが「愛とは対象がない 愛は存在そのもの」と言います。
一般的には、愛するとは、誰かや何かという対象に向かう感覚であり、対象がなければ起きないこと、というイメージかと思いますが、彼はそうした対象がなくても自分の中から湧き上がるものが愛、なぜなら私たちが愛そのものである、ということを言っていたのではないかと思います。

 

ここで、「対象」という言葉を「条件」という言葉に変え、「愛」を「感動」や「感銘」に変えてみると、わかりやすいかもしれません。私たちが感動や感銘の中にいるとき、全く条件を出すことなく、思考も通す必要もなく、ただ、命の流れや生きる力の源に手が届いていると感じることができますが、これが「愛」の感覚に近いかもしれません。

この時、怖れや思い込みの実体はすっかり薄れてしまうことでしょう。そしてまた、この時、本当の意味で、今の自分や自分が直面している状況を受け入れることもできることでしょう。

 

ワークのご紹介もしておきます♪

○○がないと、△△があれば・・といった「不足のストーリー」や不安感から抜け出すワーク
実際に起きていることに目を向けたり、感じたりしてみましょう
今ここの体の感覚に意識を向けるとやりやすいでしょう例えば、手の平を触っている感覚、椅子に座っている時の感覚に集中する

 

○○がないと、△△があれば・・の思いから自己像を見つけるワークのヒント

「それがないとどんな自分になってしまうのか?」、また「それはどんな自分だからか?」という自己像を探る問いかけをしてみます。あたかもこの自分像がいると信じているために、これがあれば、こうあってくれればという要望が生まれているからです。

 

※信じてしまうのは、そこに感情―感覚―思いがくっついているからなので、感情解放のセラピーなどが役に立ちます。

 

例えば、「誰かに助けてもらわないと無力な自分(だから)」という自己像が見えてきたとしたら、この自己像(自分)が感じている感情―感覚―思いを解放をしていくと、変容していきます。

 


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自分と向き合うとはどういうことでしょう?

2021年11月3日

温泉で出会ったおばあさんの話

先日、数カ月ぶりに温泉に行きました。

湯船や脱衣場では、興味がなくても人々の会話が耳に入ってくるものです。それはそれで、その場に居合わせた人たちと時間を共にする感覚にもなり、好きだったりします。

 

今回も、脱衣場で隣にいた80歳くらいのおばあさんが、誰にともなく話していました。おばあさんが話していたのは、こんな話でした。

 

「やっと来れたんですよ。ここのリゾート権をもっているのに予約が大変だった(1日前に予約した私は、ごめんなさいと心の中で謝りました^^)。お父さん(旦那さんのこと)が5月で亡くなったので、一緒に来れたらよかったのだけど。でもね、息子たちがいるからね、今日は家族で来れてよかったのよ。お父さん、ここ好きだったから、もう本当に一緒に来れたらよかったのに……。でもね~予約が大変だったのよ」

 

私は身支度が整ったので、

「来れてよかったですね」、「お父さん残念でしたね」と言いながら、「お先に」とその場をあとにしました。

 

 

その人の世界をつくっている96%のもの

私たちの心は顕在意識が4%で、あとの96%の潜在意識が自分の行動や反応を支配していると言われています。その96%が無意識であるからゆえに、様々な反応や解釈、行動が、この96%から生み出されている、ということにも無意識。

 

例えば、96%の部分に焦りがあれば誰かがうまくやっているように見えたり、不満や自身を否定するような思いがあると他人の些細な言動にイラっときてしまったり、反対に余裕があれば軽口をたたかれたとしても簡単に許せたり。そういうこともこの96%の部分が関係をしているのです。4%に何が現れてくるかは、96%に何があるかによって決まるのです。

 

また、特に96%の部分に、知らずに抑えているものがあると、何らかの形で埋め合わせをしたいという衝動やニーズも生まれます。依存症や摂食障害なども、基本このメカニズムが働いているのです。

 

いずれにしても、表に現れていることは、無意識の領域から生まれているのですが、無意識であるが故に、本当の意味で、どうして自分が今こういう行動をしているのか、なぜこのような表現をとっているのかについて、振り返られることはほぼほぼありません。

 

前述のおばあさんも、どうして自分が話しかけたくなっているのか、いろんな話題の中でどうしてこの話をしているのか、自分では分かっていないのでしょう。

 

 

私をキレさせたもの

こうしたことは、おばあさんに限らず、私も含めて、実はすべての人にあてはまることなのです。

私の例をお話しすると、私が大学2年か3年の時だったと思うのですが、友達に初めてキレて声を荒げた、ということがありました。約束していたバイト帰りのごはんが、都合が悪くなったから行けないと言われたときでした。相手は中学時代からの友人で、甘えもあったとは思いますが、自分でも自分の反応に驚くほど相手にひどい言葉を投げてしまったのです。

 

その頃の私はといえば、自分が何がしたいのかがわからず、色々試すがピンとこず、そしてますますわからなくなるという鬱々とした生活を送っていた時期でもありました。「自分には力がない」「自分は空っぽだ」「自分一人では何もできない」という思いや心もとなさ、不安感、焦りを持て余していたのです。相手の言葉が、そんな私に「あなた一人でやって」と言っているように聞こえ、相手への攻撃を生んだのだと今はわかります。

でも、あの時は、腹が立っているのは約束を破った相手のせいで、自分の無力感が刺激されているからだとはみじんも思っていませんでした。

 

 

おばあさんの96%にあったもの

おばあさんの話に戻りますが、おばあさんの96%の潜在意識には、何があったのでしょうか?

想像の域は出ませんが、このコロナ禍というご時世で、緊張しろ、緩めるなと言われ続けた疲れやストレス、そして、夫を亡くした喪失感や寂しさなどもあったことでしょう。そしてそれらがあれば、今回旅ができたというのは当然、嬉しいことであるでしょうし、様々な感情の中、過ごしてきたことへの称賛やねぎらいを求めたくもなるのだと思います。「お父さんがこの宿が好きだったから~」と話したのは、「自分だけ楽しんじゃ申し訳ない」と自分をいさめる気持ちが働いたのかもしれません。でも逆に言うと、それぐらいおばあさんは嬉しい気持ちで一杯でもあったのでしょう。

そんなふうに、自分では意識されていない、いろんな感情の重なりがある、ということです。

 

 

自分の意識されていない部分に光をあてる問いとは

表に出てくる反応や行動は、目に見えるものなので、わかりやすいものです。でも、それらにはいつも目に見えないワケがあり、理由があリます。さらに、そのワケや理由を支えているビリーフや価値観、記憶、セルフイメージなどがあるのです。そしてそれは、意識されていない96%の部分にあり、それらを通して事柄や人、状況を見、その結果4%に反応や行動としてでているのです。そういう意味で、意識されていない96%の部分に光をあてていくことは、本当の意味での“自分をわかっていく“ことでもあります。

 

今、こんなふうに反応したり、行動したり、解釈したりしているけれども、

 

ということは、

 

◎どういうことが私の中で起きているからだろうか?

 

◎このように反応するのは、私の中でなにか前提としている価値観などがあるからだろうか?

 

◎何か気づいていない感情や思いがあるからなのではないだろうか?

 

まずは、立ち止まって、このような問いを立ててみませんか?

そうすると、これまで意識されていなかった部分に、光があたり始めます。そして、これらの問いに答えるためには、自分に向き合わないとなりません。

 

 

自分に向き合ったことで得たもの

私は、あの声を荒げた数年後、朝起き上がることができなくなったり、パニック発作を経験することになりました。自分と向き合わず、本当の意味で自分をわかっていないことから生じる苦しさや生きづらさは、体、精神に影響を及ぼします。自身の経験から、また日々伴走をしているクライアントさんからも、それがわかります。

 

自分と向き合うかどうかは、最終的に本人が決めることだと思います。

 

私の場合は、あの生きづらさを経験したり、パニック障害になったことで、自分と向き合い始めました。それを経て、今、確実に言えることは、自身に起きたこと(キレたこと、不安で一杯だったこと、色々なことができなくなり深い自己否定の中にいたこと、などなど数限りなくあること)について、誰も悪くなかったのだな、という平和な境地にいられている、ということです。

 

この境地を多くの人たちと分かち合いたい、という思いが働くので、どうしても自分と向き合うこと、無意識の領域に気づいていくことについて語る時、ついつい熱くなってしまいます。

 

 

ちなみに、くだんの友人との友情は今も変わらずに続いています。


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