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深い傷つきや絶望から抜け出すために大切なこと

2023年8月24日

今回は、「深い傷つきや絶望から抜け出すために大切なこと」について書いてみたいと思います。

夏の休暇を利用して、新潟のワイナリーにてツアーに参加したのですが、ツアーのガイドさんの言葉から、あるクライアントさんが辿った経過や変化のことが思い出され、それは、改めて私に勇気や力を感じさせてくれる経験になりました。今回は、そのことについてお話してみたいと思います。

 

ツアーに参加したこのワイナリーは、1992年に創業され、この30年をかけてこの土地にあった最適品種にようやくたどり着けたという、そんな歴史をもつワイナリーです。最初は水を引くところからも苦労があったそうですが、今では、9ヘクタールに20種類、2万7000本のぶどうが栽培されています。ツアーでは、このぶどう畑、精密に温度管理された醸造室、多くの樽が並ぶ樽熟成庫、3万本のワインが格納されているセラーなど、ワイン造りの中心となる場所を案内してもらいました。

 

最適な品種にたどり着くまでに30年を要したのは、この土地が、海岸に近いことから土壌が砂質であることや日本海側であることから湿気があることなど、この土地特有の風土や気候といった条件があったからだそうです。それらに合うものを試行錯誤を重ねながら見つけてこられたということでした。

 

30年前というと、自分の歳に置き換えると、私は、まだ20代。そんな頃から少しずつ畑を広げ、栽培数や生産本数を増やすことに尽力されてきたのかと思うと感慨深いものがありました。

 

また、ツアー中にガイドさんがおっしゃった言葉の中で印象に残ったものがありました。

それは、「ワインづくりに失敗というものはなく、いつも可能性を感じる作業である」というものでした。今年のぶどうは不出来かとか、味がよくないかと一見思えても、瓶熟成や樽熟成を経て、開けてみると思いもよらないよい味に変化していたということがあり、土地やぶどう、その醸造にいつも可能性を感じている、と。

 

私は、このようなワイナリーの歴史や、土地やぶどう、醸造の可能性の話を聞いて、あるクライアントさんのことを思い出しました。

その方は、親から十分な愛情がもらえず、深く傷つき、大人になってからも、親への許せない気持ちや、自身の中に渦巻く孤独感、無力感に苦しんだ方です。絶望から、死の淵を見るほどの苦しみも味わったともおっしゃっていました。

 

このような経験がある方だったのですが、自身と向き合っていく中で、この方の中にあった「自分がこんなつらい目に遭っているのは親のせいだ」という犠牲者意識が和らいでいき、この犠牲者意識から抜け出すことができるようになっていきました。

親がそのようなふるまいをしたのは自分のせいではなく、「相手の問題だったのだ」といったような、自分責めや自己否定をしない状態になり、つらく苦しんだ自分を許す気持ちも自然と出てくるようになったのです。

 

そして、こうした変化を経験された中で言われた言葉がありました。

それは、「私は私をあきらめなくて本当によかった」というものでした。この言葉は、「私は私自身と向き合うこと、またそれができる力をあきらめなくてよかった」と言い換えることができると思います。

 

小さな子どもにとって、自分が守られているか、愛されているかを感じることができるのは、親(養育者)や家庭の雰囲気からです。しかし、ニグレクトや虐待などによって、守られている感覚や、愛されている感覚を与えられない、愛が欠乏している状態のままだと、自分への認識や世界の見方に大きく影響を及ぼし、自分は愛されても良い存在なんだと思えず、自分でも自分を愛することができなくなったり、「世界や人は怖い」と思いこんでしまったりします。その状態は、大きなあきらめや絶望を感じさせることになるのです。

 

このように大きすぎるあきらめや絶望があると、それが蓋となって、その奥にある傷ついている気持ちを隠してしまい、そこにアクセスできないようにしてしまいます。そのため、自分が傷ついている部分を受け容れていくことができなくなってしまいます。本当の気持ちと自分とが、乖離したままの状態になるのです。

 

ですが、この方は、このあきらめや絶望があることを受け容れ、その奥にある傷ついた気持ちを見るようにされました。親を責めたり、自分を責めたりといった犠牲者の目線に留まるのではなく、親との関係の中で、実際どんな気持ちだったのか、どんなことを感じていたのかに目を向け、愛が欠落してしまった部分を受容し、満たしていくことをしていかれたのです。(具体的には、ネガティブな感情や感覚などをセラピーを使って解放していきました。)

それにより、親への憎しみが和らぎ、頭の中にフラッシュバックする親の言動が消え、誰からも奪われることのない本来の自分の力を見出し、穏やかな気持ちでいられるようになっていきました。

 

このように、ワイナリーツアーでのガイドさんの言葉から、土やぶどう、発酵の力を信じて、30年という年月、向き合ってきたワイナリーの姿勢と、どんなに絶望していたとしても、そんな自分自身の中にある力を信じてあきらめなかったクライアントさんの姿が重なりました。

そして、こうした姿勢やまなざしが、変化への可能性を開いていくのだと、改めて思い起こされ、私の中にも勇気や力が戻ってくる感覚を感じることができました。

 

深い傷つきからの絶望やあきらめがある時こそ、それらのさらに奥にある自分の中の愛を欲している部分に目を向け、声を聞き、癒していくことが、愛へと戻れる道すじであることを覚えておきたいですね。

 

 

 

 


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本質的な癒しについて ―(2)本当の自分に気づくことと本質的な癒しとの関係―

2023年5月15日

前回は、強い自己否定やそこから発症したパニック障害で苦しんだ私が、感情や感覚、思いと向き合っていく中で、全ては心の中にある感情や感覚、思いの投影であること、そしてこの感情―感覚―思いは実体がなく、本当の自分(真の自己)とは全く関係がないのだという理解をしていったことによって、症状が劇的に良くなっていったことをご紹介しました。

 

第2回目の今回は、このような「本当の自分」に気づいていくというプロセスが、自分の悩みや症状の癒しをしていくことと、どうつながっているのかについてお話してみたいと思います。

 

本当の自分とは

それでは、「本当の自分」とはどんなものなのか、私たちが見る「夢」や、「映画館のスクリーンとその上に映し出されている映画」を例にしながら、見ていきましょう。

 

例えば、夢を見ている間は、その夢の中で走ったり、もがいたり、楽しく過ごしたりして、その物語を生きますね。恐竜に食べられそうになっている夢、敵に追われて崖まで追いつめられている夢を見た場合、これが現実だとしたら大変なことです。ですが、目が覚めると、それがどんなに怖い夢であったとしても、夢をみていたとわかってホッとします。それは、「現実には何も変化はなく夢をみていたのだ」とわかっているからです。

 

これを、映画館のスクリーンとその上に映し出される映画に例えてみると、

私たちが見ている夢とはスクリーンに映し出される映画であり、

夢をみていたのだとわかっている私たちはスクリーンとなります。映し出される映画は都度変わるのですが、スクリーンは映画の内容によって破けたり、燃えたりなどせず、一定で何も変わりません。

 

これを、前回ご紹介したヨガ哲学の言葉に当てはめると、

ヨガ哲学の言葉
「私たちが普段『自分』と思っているのは一体何なのか? 肉体、呼吸、五感、心、経験が自分なのか?」という問いを投げかけ、
 
この問いに対して、
 
「これらはすべて変わりゆく物であって、本当の自分ではなく、本当の自分は、これらの変化を観て、これらを経験する者。変化する物の中にありながら、どんなことがあっても変化しない存在が自分自身。変化する物のすべてを、本当の私だけが、変化することなく観ている」(「やさしく学ぶYOGA哲学 ヨガスートラ」向井田みお著(P61))と「本当の自分」について説いている

 

「変わりゆくもの、本当の自分ではないもの」が”夢”や”スクリーンに映し出される映画”ということになり、

「これらの変化を観て、これらを経験する者。変化する物の中にありながら、どんなことがあっても変化しないもの」「変化するもの全てを見ている変化しないもの」が”夢を見ていたのだとわかっていること”や”スクリーンそのもの”ということになり、それが「本当の自分」ということになります。

 

本当の自分に気づくことと本質的な癒しとの関係

「自分(普段の私たち)」や「自分が作り出す物語」は、感情や感覚、思いの連動と集積によって成り立っています。これらは、変化したり、変容したり、消えたりするという性質のものである以上、夢や映画と同じなのです。それが、どんな自分や物語であったとしてもです。つまりそれが、うまくいっていない自分や苦しい物語だろうと、逆に、うまくいっている自分や楽しい物語だろうとも、です

 

エクハルト・トールが、「自分が何者でないかを見きわめるなかから、自ずと自分は何者かという現実が立ち現れる」(『ニューアース』エクハルト・トール著(p37))と言っているように、普段の私たちが実体性がないとわかればわかるほど、本当の自分(真の自己)は、スクリーンである変わらないものである、という理解が現れてきます。

 

これが理解できてきたときに、私の中で、「私という物語を生きる」ことに、いい意味で力を抜くことができたのです。「諸行無常」という言葉がありますが、あらゆるものが移り変わっていくという、そのありように抗わずに、任せてよいのだなといった信頼や、そこからの安心感に包まれました。

また裏を返せば、自分がいかに本来は実体がない夢や映画という物語を信じ、その物語をよい物語にしようとエネルギーを費やしてきたのか、ということにも気づかされ、それ自体が、私を私たらしめているものなのだなという自分という存在への理解やその健気さに労りの気持ちも生まれました。

 

こういった、物語(夢や映画)は本当の自分ではなく、本当には何も起きておらず、本当の自分はスクリーン(変化することなくただ見て、それらを経験するもの)の方だということに気づくことで訪れた癒しは、それまでにない深い癒しとなりました。それを「本質的な癒し」と呼ぶならば、それまで求めていた癒しは、言ってみれば「一般的な癒し」と言えるかもしれません。

一般的な癒しは(これはこれでとても大切なものでもあるのですが)、物語(夢や映画)をいわゆるネガティブなものからポジティブなものへと変えることで得られる癒しと言えるかもしれません。

そこでは、物語(夢や映画)はポジティブに変わったとしても、それはやはり「夢」であり「スクリーンに映った映画」であって、いつまたネガティブなストーリーが上映されるかもしれません。変わらないもの、変化しないものがあるのだということに理解や実感がないと、変化することや変わるということは脅威となります。そのため、普段の私たちは、たとえ楽しい物語(夢)を生きていたとしても、いつまた物語(夢や映画)が変わってしまうかもわからない、といった欠如感や不安、怖れというものを感じてしまうのです。時にはよい物語を維持しようと執着し、それが苦しみにもなってしまうこともあるでしょう。つまり、決して、絶対的な満足感、安心感、信頼、充足感を得ることはできないのです。

 

このように、私にとって、本当の自分(真の自己)に気づいていくというプロセスは、私がずっと持ち続けてきた「本当に安心できるということはどういうことなのだろう」と問いに対しての答えをくれるものでもありましたし、物語(夢や映画)を変えるだけの癒しとは違う、より深い安堵や絶対的な安心感、癒しをもたらしてくれたものになったということです。

 

最後に

ここまで、18歳から約20年余りにわたる私の苦しみの癒しのプロセスをご紹介しながら、より深い癒しを知ったことですごく楽になれたこと、そしてその深い癒しとは何かについてお話をしてきました。

 

私は、普段はもちろん思考や解釈、イメージなどと同化して私(物語、夢、映画)を生きていますが、これからも自身や自身の物語を構成している感情、感覚、思いの集積などの解放、解体を通して、本質や絶対的な安心の場に体験的に触れていくということを続けていきたいと思っています。

 

皆さんも頭の理解のレベルでもよいので、時々、思考や解釈、イメージ、物語を信じず、脇に置いて、本当の自分とはスクリーンの方であるということを思い出すことを意識してみるのはどうでしょうか?

 

なぜなら、この「本当の自分」は、無条件の愛、受容、慈しみ、信頼、英知、静寂、愛ある力、生命そのものなので、それを意識することで、いつもうっすらとある欠如感や不安、怖れを埋めようとする自動反応的な動きから自身を休ませることができますし、このような動きに巻き込まれていなければいないほど、本質や絶対的な安心の場とは切り離されていないのだなという感覚が持ちやすくなるからです。

そしてまた、自分という存在の実体性がないことがわかることで、逆に、私という存在、物語(夢)を力を抜いてもっともっと楽しむこともできるのではないかと思います。

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

 

 

 

 


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本質的な癒しについて ―(1)私自身がパニック障害を克服するまでー

2023年5月7日

今回は、「本質的な癒し」について、2回に分けて書いてみたいと思います。

 

強い自己否定やそこから発症したパニック障害からの不安感や恐怖感に苦しんだ時間が長かった私にとって、「癒し」というものや「本当に安心できるということはどういうことなのだろう」という問いは、いつも身近にあり、この問いをしながら、自分の学びや癒しに取り組んできました。

 

そうして取り組む中で、単なる「癒し」ではなく「本質的な癒し」とは何なのかを考えるようにもなりました。

第1回目の今回は、私が「本質的な癒し」を知って、症状が劇的に良くなっていったプロセスをご紹介します。そして第2回目で、「本質的な癒し」が、自分の悩みや症状の癒しをしていくことと、どうつながっているのかを話してみたいと思います。

 

自己否定の始まり

私が初めてのパニック発作を経験したのは、27歳の時でした。それ以降、予期不安や恐怖感に悩まされる状態になったのですが、このパニック発作やパニック障害を発症することに影響があったのは、私が自分を肯定するということができない時間を18歳くらいから過ごしたことにあると思っています。それ以来「こんな自分はだめだ」とか「自分は何をやってもうまくいかない、ダメ人間だ」といった自己卑下と、劣等感で苦しみながら生きていたのです。

 

きっかけは大学入学でした。志望した大学に入ったにもかかわらず、そこで出会うクラスメイト、同学年の学生たちが「みんなそれぞれの価値観やそれに基づいた目的をもって生きている」ように見えて、そのことに衝撃を受けたのです。

 

自分の捉え方で物事を見てしまう「投影」

どうしてこのように映ったのでしょうか?

私は地方の進学校に通っていたのですが、高校での学びはいつの間にか、大学に合格するための勉強という位置づけになってしまいました。学びが、手段から目的に変わってしまい、大学合格がいつの間にか「ゴール」になってしまっていたのです。そうやって過ごす中で、自分がどう生きたいのかといったことを完全に見失っていきました。ですから、入学すると、私は何をしたらよいのかが全くわからない状態になってしまいました。それはまるで、コンパスを持たない舟が、急に大学生活という大海原に放り出されたような感じでした。

そんな私の目に飛び込んでくるのは、ちゃんと目的や将来の展望をもっている友人たちの姿でした。たまたま出会った人たちがそういう人たちだった、ということがあるのかもしれないですが、コンパスを失っている私にとっては、彼らの姿は自分とは真反対に映ってしまうのです。

 

当時は心の仕組みについて知らないので、それが自分の心の内の投影である(自分の捉え方で物事を見てしまうという仕組み)とは思ってもみません。目的がなくなり、どう進めばよいのかがわからなくなっている私には、周りの人たちがちゃんと目的や意思をもっている人だ、と映り、それが事実であるということになってしまうのです。

 

そしてそのことは、自分に衝撃を与え、これまでの自分の世界観や自分という存在に対しての自信を失わせていきました。自分のことがちっぽけに思え、自分の存在の小ささを思っていたたまれなくなり、「こんな自分はだめだ」「何をしても無理だ」といった自己否定へとどんどんはまりこんでいくこととなりました。

 

抱えきれないネガティブな感情や感覚、思いを抑圧するために使う「防衛」と「攻撃」

今ならば、友人たちの姿に触れたときのショックや衝撃、恥の気持ちなどが、自己否定への引き金となったと理解でき、そのショックや衝撃を受けた際の感情などを解放したり、さらには、そもそも手段が目的に変わってしまった理由(自分がどう生きたいのかといった意思やビジョンをもちにくくなっていた理由)を探って癒したりすることができたと思います。ですが、当時はそのようなことは全く知らなかったので、自分の目に映ったものを事実と信じ込んで、ショックや恥の気持ちなどを抑えておかなければなりませんでした。こうしたときに私たちの心は、防衛しながら攻撃するという仕組みが働くのですが、私の場合、攻撃の矛先が特に自分に対して向いたわけです。「自分がダメだからだ」という風にです。

 

そして大学入学以降、この「私はダメな人間」という思いを信じこみ、周りはできる人たちであふれているようにしか見えず、私は劣等感まみれになって生きることになっていきました。そして、この劣等感をさらになんとかするために、何かスキルを身につけようとあがいてみたり、でもその一方では、劣等感が強くあるので、何かにチャレンジするということも難しく、まさに八方ふさがりの状態で苦しんでいました。

 

「私はダメな人間」という思いから、様々なネガティブな思いの糸が出てきて、それらの糸が絡まりに絡まって、もはやほどけない状態になっていました。「私はダメな人間だ」というネガティブな思考を信じ込めばこむほど、その世界観が事実にしか見えなくなってしまう、そんな状態にあったということです。

 

そんな状態を約10年間続ける中で、パニック発作が起きました。それからは発作が起きた電車などの場所が怖くなってしまい、「ここに閉じ込められたらどうしよう」などと不安が襲ってきて、生活も制限されるようになりました。そして、ここでもそんな自分を責め続けるのです。

 

逆に言うと、それほど苦しい状態になっていても、どうやってこの苦しみから解放されるのかの術がわからずにいたということでもあります。私は「私はダメな人間」という思いを信じ切って、パニック障害からの不安感を抱えながらもそれからも約15年間を過ごすのです。

 

苦しみを生み出す「本当の原因」

そんな私に変化をもたらしたものは、苦しみを生み出す本当の原因を自分の潜在意識の中に探って、感情や感覚、思いを解放したり、変容をさせたりしていく心理カウンセリングの手法でした。
(これは私の現在のセッションでも採用している手法でもあり、これまでの記事でもご紹介している、気づきの問いかけとセラピーを組み合わせたOADという手法になります。)

そこに至るまでには、長い道のりがありました。

初めのうちは、自分でも自分の状態をなんとかしたいと、本を探して読んでみたり、リラックスできるようにヒーリングを受けてみたりしました。でも、症状が根本的に良くなることはありませんでした。

その後、家族の海外留学に伴い、イギリスに行くことになりました。この時も状態は改善していないので、エジンバラ大学で「カウンセリング研究」という修士コースに通い学問的な角度からも学んでみたりしました。けれども、どんなに知識を入れても、やはり症状は良くなることはありませんでした。

 

そんな中、いろいろ調べるうちに、出会ったのが、私の師匠である溝口あゆかさんのブログでした。そこから、私は溝口さんが主宰される講座に参加するようになりました。

そこで知ったのは、私たちの心の仕組みについてでした。具体的には、先にも書いた「私たちは自分の捉え方で物事を見ている」ということや、その捉え方に影響を与えるものはビリーフやセルフイメージであり、それらは潜在意識にあって気づいていないのだということでした。

そして、こうした仕組みを理解できればできるほど、ビリーフやセルフイメージを自身の心に探ることができるということや感情解放のセラピーを用いて癒すことができるということでした。

それは、私の中にあった、心とは「捕らえどころのない扱いにくいもの」という認識を、悩みを生み出す元までたどることもできる「構造的で論理的に把握ができるもの」という新しい認識へと変えてくれました。

そして、自分のことをわかっていると思っていたけれども、本当は何も知らないのだということに衝撃を受けるとともに、この心の仕組みを理解することが、本当の意味でもっと自分をわかっていけることにつながると思えたのです。

 

そうしてわかったことは、ここまででおわかりのように、私のパニック障害の「本当の原因」は、大学受験を目的化してしまうことと関係がある「自分がどう生きたいのかがわからないままになってしまう」ところだということでした。ここが違っていれば、大学入学時の経験も違ったものになったでしょうし、そこからの自己否定にも苦しまなかったでしょうから。

 

そしてこれは私の幼少期の親との関係や家庭での経験と関わっていました。ここでは詳細は割愛しますが、私は、ピリピリとした緊張感のある雰囲気の家庭で育ったので、人の顔色を見たり、自分がどうふるまえば家族の関係が安定するのかということにばかりに注意がいく子でした。いつも自分よりも相手の気持ちを優先していたのです。ですから、自分がどうふるまいたいか、どう生きたいかという発想をもつことがわかりにくい状態になっていたと思います。そんな私にとって、外からわかりやすい指標や目的が与えられ、その結果を出すと周りが喜ぶ(例えば成績が上がると親が喜ぶなど)ということがあると、ますます自分が何をしたいのかがわからないまま、与えられたゴールに向かってただ突き進むということになっていたのです。

 

ですので、私に必要だったのは、自分自身がどうしたいのかを決めてもいいと思えることや、自分にはそれができると信じられる自己効力感などの力を取り戻していくことだったのです。そのために大事なことは、自分よりも人の気持ちを優先してきた自分自身に理解を示しつつ、私の中に刷り込まれていた「自分の気持ちを優先してしまったら愛されなくなってしまう」といった思いから自分を自由にしていくことであり、そのためにこの思いに付随する怖れや不安感などの感情を解放していくことでした。

 

向き合えば向き合うほどわかったこと~投影~

このように感情や感覚、思いと向きあい、解放していく中で、「自分の気持ちを優先してしまったら愛されなくなるのでは」という思いの真実味が薄れていきました。それに伴って、状況への別の視点が自然に出てくるなど認知の変化も起きてきました。例えば、私の場合、「大人たちには大人たちなりの事情があったのかも」とか、「私がどうだからかということとは無関係なのかも」といったようにです。

このような認知の変化によって、気づけば、自己否定や自分責めにエネルギーを使うことがなくなっていました。また、パニック障害の症状である予期不安や乗り物への恐怖、広場恐怖に苦しめられることもなくなっていきました。

 

さらに、感情や感覚、思いと向き合えば向き合うほど、認知が自然と変化していきますので、いかに私という存在が、感情―感覚―思いとの連動であり、かつ、その集積で成り立っているのかということや、私の世界観というものはそれらを通して、作られているのだということに改めて気づかされていきました。

つまり、「今自分が見ている世界は、自分の感情―感覚―思いが投影されたものなのだ」という私たちの心の作用について、実感を伴って理解が進んでいきました。それは例えば、自分の中にさびしさがあれば、道端の花が一人ぼっちで咲いているように見える、といった風に、全ては自分の心の投影であって、そこには事実はない、という理解でもありました。

 

向き合えば向き合うほどわかったこと~変化するものと変化しないもの「本当の自分」~

また、一方で、「感情や感覚、思いというのは、解放されるのだな」という経験をすればするほど、それらの「変化する」という性質がわかってもきます。つまり、変化するものである以上、それらに実体性というものがないのだ、ということも実感していくことになりました。

 

そして、こうした、【私たちの存在自体は、感情や感覚、思いとの連動で動き、それらの集積で成り立っている】ということと、【これらの感情や感覚、思いに実体性がない】ということから実感したことは、私たちの存在自体が、全く実体性がないものなのだということでした。このことが実感を伴って理解できていったのです。

 

そして、本当の自分(真の自己)とは、これらの感情や感覚、思いとは全く関係がないのだという理解も並行して立ち上がってきたのです。

 

これは例えば、ヨガ哲学の中で、

 

「私たちが普段『自分』と思っているのは一体何なのか? 肉体、呼吸、五感、心、経験が自分なのか?」という問いを投げかけ、この問いに対して、

 

「これらはすべて変わりゆく物であって、本当の自分ではなく、本当の自分は、これらの変化を観て、これらを経験する者。変化する物の中にありながら、どんなことがあっても変化しない存在が自分自身。変化する物のすべてを、本当の私だけが、変化することなく観ている」(「やさしく学ぶYOGA哲学 ヨガスートラ」向井田みお著(P61))と「本当の自分」について説いているのですが、このように言われていることが、自分の感情や感覚、思いと向き合ったり、解放されていくという経験の中で、体験と実感を伴ってわかっていったのです。

 

 

ここまで私がどのように強い自己否定やパニック障害の症状からよくなっていったかの過程についてご紹介をしてきました。

次の回では、本当の自分に気づくことがどう本質的な癒しとなるのか、その関係についてお話をしていきたいと思います。

 

「本質的な癒しについてー(2)本当の自分に気づくことと本質的な癒しとの関係」につづく

 

 

 

 


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今の自分にOKが出せない理由

2021年11月19日

自分自身を振り返ってみても、私たちは、今の自分にOKを出すことが難しく、自分の足りないところを埋めようと、知識やスキルをつけようと懸命になったり、解決策を見つけようと必死になったりしがちです。でも、いくらそれをやってみても、本当の意味での安心感は得られません。
どうしてそんなことが起きるのでしょうか?そして、本当の安心感を得るには、どうしたらいいのでしょうか?

 

思い込みを強める「怖れ」の正体

たとえば、あなたが、「自分は気がきかない」と心の深いところで信じているとしましょう。

この思いを信じているあなたが仕事をする場合、どのような行動になるでしょうか?

 

・抜けがないように気をつけようとする

・機転がきく部下が気になってしまう

・全ての仕事の依頼を引き受けようとする

・困っている人がいないかいつも周りを気にしている……などをするかもしれません。

 

この行動へと向かわせるのは、潜在意識にある「自分は気がきかない」という思い込みです。思い込みなので、事実ではありません。事実は、「私がオフィスのデスクに座っている」「私が〇〇の仕事をしている」「私が△△のプロジェクトに関わっている」といったことです。一方で、こうした思い込みを信じ込む背景には、私たちが持つ「怖れ」の存在があります。この怖れの正体は、実は「死」なのです。

 

この「死」には、2つの種類があります。一つは「肉体の死」もう一つは「精神の死」です。肉体の死とは、文字通りに肉体を失うことで、現在の先進国では、動物に襲われたりすることはない反面、かなりの部分は経済的に食べられなくなってしまうことを指しています。精神の死は、仲間から受け入れられなくなったり、評価されなくなり、自分の存在価値がなくなったと感じて精神的に死ぬことを意味します。

 

気がきかない、ということは、仕事を失って稼げなくなって肉体的に死ぬことにつながりますし、役に立てず、評価を失って精神的にも死ぬことにつながります。ゆえに、気がきかない状態から脱出したい、そう思われることを避けたいと、必死になるわけです。

 

 

消えない不足感、不安感を埋めるために私たちがすること

「死」への怖れによって「気がきかない私はだめだ」という自己否定は強められ、これがないから幸せではない、これが手に入るまでは自分を認められない、といった「不足のストーリー」も生まれます。

 

・なぜ自分はできないのだろう。もっと自分に能力があったなら→資格を増やそう

・なぜこんな会社を選んじゃったんだろう。もっと自分にあった会社があるのではないか→転職活動をしようか

・もっと上司が評価してくれる人だったらよかったのに→部署変えを申請しようか

・マウントをとらない部下だったらよかったのに→あの部下とはあまり付き合わないようにしよう

・・・・・・

 

などなど、自分や相手、状況に対する不満や要望は数えだすときりがありません。

 

しかし、根本に怖れがある限り、「私は気がきかない」という思い込みから抜け出すことができないので、このようにいくら不足感を埋める行動をしても、自分では満足感や達成感を得ることができず、常に不安感が消えずに、やがて疲れ果ててしまいます。

 

 

「怖れ」から「愛」に

こうした不足感や不安感から抜け出して、本当の安心感を得るには、どうしたらいいでしょうか?

 

大切なのは、出発点を「怖れ」から「愛」に変えてみることです。それにより、間違った解釈に立った思い込みから抜けだすことができます。

 

もし「死」への「怖れ」がなければ、つまり気がきかなくても、肉体的にあるいは精神的に絶対に死なないと保証されているとしたならば、私たちはどんな風に職場に存在し、どんな行動をとるでしょうか。

 

おそらく、仕事を失わないように、や、評価を失わないようにといった視点の行為から、より「私はどうありたいか」の視点に変わるのではないでしょうか?

例えば、なぜ私はこの仕事と関わっているのかといった自分のビジョンや、このプロジェクトに携わる動機やミッション、情熱、といったことが、立ち現れてくるかもしれません。相手中心の状態から、自分主体の状態へと、変化が起きてきます。

 

 

「愛」の感覚を思い出す

ここでちょっと、「怖れ」がない状態をイメージしてみたいと思います。

 

すごく感動したり、気持ちが動いた瞬間、映画や本、芸術、食べ物などに感銘を受けた時、心を奪われるような景色や情景に触れた時のことを覚えていますか?

その瞬間、身体はどうなっていたでしょうか? 何をとらえていたでしょうか?

 

周りの音が耳に入ってこないくらいに全身でその瞬間にただいたかもしれないですね。

頭の中が真っ白、言葉を失うぐらいの何かが体を充満していたかもしれないですね。

 

この時、思考はうるさく何かを語っていたでしょうか?

怖れや欠如感がこの瞬間、存在していたでしょうか?

 

おそらく思考が限りなく鎮まっていて、ただその感動や感銘が体を通した感覚として経験されていただけではないでしょうか?

 

素晴らしくて細胞が目覚めるような感じ

わぁ~とため息が漏れるような、圧倒されるような感じ

 

などのように。

 

この限りなく思考を通さない、ただこの感覚の連続の経験、またそれを経験することができる部分が私たちの中にある、私たちそのものであるということを思い出し、そちらをベースにしてみるのはどうでしょうか?

 

苦しければ苦しいときほど、命なき命を生きる状態から、この命の輝き、生命の流れそのものであるということを思い出したいと思うのです。

 

 

イエズス会の司祭であり心理療法家でもあったアンソニー・デ・メーロが「愛とは対象がない 愛は存在そのもの」と言います。
一般的には、愛するとは、誰かや何かという対象に向かう感覚であり、対象がなければ起きないこと、というイメージかと思いますが、彼はそうした対象がなくても自分の中から湧き上がるものが愛、なぜなら私たちが愛そのものである、ということを言っていたのではないかと思います。

 

ここで、「対象」という言葉を「条件」という言葉に変え、「愛」を「感動」や「感銘」に変えてみると、わかりやすいかもしれません。私たちが感動や感銘の中にいるとき、全く条件を出すことなく、思考も通す必要もなく、ただ、命の流れや生きる力の源に手が届いていると感じることができますが、これが「愛」の感覚に近いかもしれません。

この時、怖れや思い込みの実体はすっかり薄れてしまうことでしょう。そしてまた、この時、本当の意味で、今の自分や自分が直面している状況を受け入れることもできることでしょう。

 

ワークのご紹介もしておきます♪

○○がないと、△△があれば・・といった「不足のストーリー」や不安感から抜け出すワーク
実際に起きていることに目を向けたり、感じたりしてみましょう
今ここの体の感覚に意識を向けるとやりやすいでしょう例えば、手の平を触っている感覚、椅子に座っている時の感覚に集中する

 

○○がないと、△△があれば・・の思いから自己像を見つけるワークのヒント

「それがないとどんな自分になってしまうのか?」、また「それはどんな自分だからか?」という自己像を探る問いかけをしてみます。あたかもこの自分像がいると信じているために、これがあれば、こうあってくれればという要望が生まれているからです。

 

※信じてしまうのは、そこに感情―感覚―思いがくっついているからなので、感情解放のセラピーなどが役に立ちます。

 

例えば、「誰かに助けてもらわないと無力な自分(だから)」という自己像が見えてきたとしたら、この自己像(自分)が感じている感情―感覚―思いを解放をしていくと、変容していきます。

 


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