今回は、「本質的な癒し」について、2回に分けて書いてみたいと思います。
強い自己否定やそこから発症したパニック障害からの不安感や恐怖感に苦しんだ時間が長かった私にとって、「癒し」というものや「本当に安心できるということはどういうことなのだろう」という問いは、いつも身近にあり、この問いをしながら、自分の学びや癒しに取り組んできました。
そうして取り組む中で、単なる「癒し」ではなく「本質的な癒し」とは何なのかを考えるようにもなりました。
第1回目の今回は、私が「本質的な癒し」を知って、症状が劇的に良くなっていったプロセスをご紹介します。そして第2回目で、「本質的な癒し」が、自分の悩みや症状の癒しをしていくことと、どうつながっているのかを話してみたいと思います。
自己否定の始まり
私が初めてのパニック発作を経験したのは、27歳の時でした。それ以降、予期不安や恐怖感に悩まされる状態になったのですが、このパニック発作やパニック障害を発症することに影響があったのは、私が自分を肯定するということができない時間を18歳くらいから過ごしたことにあると思っています。それ以来「こんな自分はだめだ」とか「自分は何をやってもうまくいかない、ダメ人間だ」といった自己卑下と、劣等感で苦しみながら生きていたのです。
きっかけは大学入学でした。志望した大学に入ったにもかかわらず、そこで出会うクラスメイト、同学年の学生たちが「みんなそれぞれの価値観やそれに基づいた目的をもって生きている」ように見えて、そのことに衝撃を受けたのです。
自分の捉え方で物事を見てしまう「投影」
どうしてこのように映ったのでしょうか?
私は地方の進学校に通っていたのですが、高校での学びはいつの間にか、大学に合格するための勉強という位置づけになってしまいました。学びが、手段から目的に変わってしまい、大学合格がいつの間にか「ゴール」になってしまっていたのです。そうやって過ごす中で、自分がどう生きたいのかといったことを完全に見失っていきました。ですから、入学すると、私は何をしたらよいのかが全くわからない状態になってしまいました。それはまるで、コンパスを持たない舟が、急に大学生活という大海原に放り出されたような感じでした。
そんな私の目に飛び込んでくるのは、ちゃんと目的や将来の展望をもっている友人たちの姿でした。たまたま出会った人たちがそういう人たちだった、ということがあるのかもしれないですが、コンパスを失っている私にとっては、彼らの姿は自分とは真反対に映ってしまうのです。
当時は心の仕組みについて知らないので、それが自分の心の内の投影である(自分の捉え方で物事を見てしまうという仕組み)とは思ってもみません。目的がなくなり、どう進めばよいのかがわからなくなっている私には、周りの人たちがちゃんと目的や意思をもっている人だ、と映り、それが事実であるということになってしまうのです。
そしてそのことは、自分に衝撃を与え、これまでの自分の世界観や自分という存在に対しての自信を失わせていきました。自分のことがちっぽけに思え、自分の存在の小ささを思っていたたまれなくなり、「こんな自分はだめだ」「何をしても無理だ」といった自己否定へとどんどんはまりこんでいくこととなりました。
抱えきれないネガティブな感情や感覚、思いを抑圧するために使う「防衛」と「攻撃」
今ならば、友人たちの姿に触れたときのショックや衝撃、恥の気持ちなどが、自己否定への引き金となったと理解でき、そのショックや衝撃を受けた際の感情などを解放したり、さらには、そもそも手段が目的に変わってしまった理由(自分がどう生きたいのかといった意思やビジョンをもちにくくなっていた理由)を探って癒したりすることができたと思います。ですが、当時はそのようなことは全く知らなかったので、自分の目に映ったものを事実と信じ込んで、ショックや恥の気持ちなどを抑えておかなければなりませんでした。こうしたときに私たちの心は、防衛しながら攻撃するという仕組みが働くのですが、私の場合、攻撃の矛先が特に自分に対して向いたわけです。「自分がダメだからだ」という風にです。
そして大学入学以降、この「私はダメな人間」という思いを信じこみ、周りはできる人たちであふれているようにしか見えず、私は劣等感まみれになって生きることになっていきました。そして、この劣等感をさらになんとかするために、何かスキルを身につけようとあがいてみたり、でもその一方では、劣等感が強くあるので、何かにチャレンジするということも難しく、まさに八方ふさがりの状態で苦しんでいました。
「私はダメな人間」という思いから、様々なネガティブな思いの糸が出てきて、それらの糸が絡まりに絡まって、もはやほどけない状態になっていました。「私はダメな人間だ」というネガティブな思考を信じ込めばこむほど、その世界観が事実にしか見えなくなってしまう、そんな状態にあったということです。
そんな状態を約10年間続ける中で、パニック発作が起きました。それからは発作が起きた電車などの場所が怖くなってしまい、「ここに閉じ込められたらどうしよう」などと不安が襲ってきて、生活も制限されるようになりました。そして、ここでもそんな自分を責め続けるのです。
逆に言うと、それほど苦しい状態になっていても、どうやってこの苦しみから解放されるのかの術がわからずにいたということでもあります。私は「私はダメな人間」という思いを信じ切って、パニック障害からの不安感を抱えながらもそれからも約15年間を過ごすのです。
苦しみを生み出す「本当の原因」
そんな私に変化をもたらしたものは、苦しみを生み出す本当の原因を自分の潜在意識の中に探って、感情や感覚、思いを解放したり、変容をさせたりしていく心理カウンセリングの手法でした。
(これは私の現在のセッションでも採用している手法でもあり、これまでの記事でもご紹介している、気づきの問いかけとセラピーを組み合わせたOADという手法になります。)
そこに至るまでには、長い道のりがありました。
初めのうちは、自分でも自分の状態をなんとかしたいと、本を探して読んでみたり、リラックスできるようにヒーリングを受けてみたりしました。でも、症状が根本的に良くなることはありませんでした。
その後、家族の海外留学に伴い、イギリスに行くことになりました。この時も状態は改善していないので、エジンバラ大学で「カウンセリング研究」という修士コースに通い学問的な角度からも学んでみたりしました。けれども、どんなに知識を入れても、やはり症状は良くなることはありませんでした。
そんな中、いろいろ調べるうちに、出会ったのが、私の師匠である溝口あゆかさんのブログでした。そこから、私は溝口さんが主宰される講座に参加するようになりました。
そこで知ったのは、私たちの心の仕組みについてでした。具体的には、先にも書いた「私たちは自分の捉え方で物事を見ている」ということや、その捉え方に影響を与えるものはビリーフやセルフイメージであり、それらは潜在意識にあって気づいていないのだということでした。
そして、こうした仕組みを理解できればできるほど、ビリーフやセルフイメージを自身の心に探ることができるということや感情解放のセラピーを用いて癒すことができるということでした。
それは、私の中にあった、心とは「捕らえどころのない扱いにくいもの」という認識を、悩みを生み出す元までたどることもできる「構造的で論理的に把握ができるもの」という新しい認識へと変えてくれました。
そして、自分のことをわかっていると思っていたけれども、本当は何も知らないのだということに衝撃を受けるとともに、この心の仕組みを理解することが、本当の意味でもっと自分をわかっていけることにつながると思えたのです。
そうしてわかったことは、ここまででおわかりのように、私のパニック障害の「本当の原因」は、大学受験を目的化してしまうことと関係がある「自分がどう生きたいのかがわからないままになってしまう」ところだということでした。ここが違っていれば、大学入学時の経験も違ったものになったでしょうし、そこからの自己否定にも苦しまなかったでしょうから。
そしてこれは私の幼少期の親との関係や家庭での経験と関わっていました。ここでは詳細は割愛しますが、私は、ピリピリとした緊張感のある雰囲気の家庭で育ったので、人の顔色を見たり、自分がどうふるまえば家族の関係が安定するのかということにばかりに注意がいく子でした。いつも自分よりも相手の気持ちを優先していたのです。ですから、自分がどうふるまいたいか、どう生きたいかという発想をもつことがわかりにくい状態になっていたと思います。そんな私にとって、外からわかりやすい指標や目的が与えられ、その結果を出すと周りが喜ぶ(例えば成績が上がると親が喜ぶなど)ということがあると、ますます自分が何をしたいのかがわからないまま、与えられたゴールに向かってただ突き進むということになっていたのです。
ですので、私に必要だったのは、自分自身がどうしたいのかを決めてもいいと思えることや、自分にはそれができると信じられる自己効力感などの力を取り戻していくことだったのです。そのために大事なことは、自分よりも人の気持ちを優先してきた自分自身に理解を示しつつ、私の中に刷り込まれていた「自分の気持ちを優先してしまったら愛されなくなってしまう」といった思いから自分を自由にしていくことであり、そのためにこの思いに付随する怖れや不安感などの感情を解放していくことでした。
向き合えば向き合うほどわかったこと~投影~
このように感情や感覚、思いと向きあい、解放していく中で、「自分の気持ちを優先してしまったら愛されなくなるのでは」という思いの真実味が薄れていきました。それに伴って、状況への別の視点が自然に出てくるなど認知の変化も起きてきました。例えば、私の場合、「大人たちには大人たちなりの事情があったのかも」とか、「私がどうだからかということとは無関係なのかも」といったようにです。
このような認知の変化によって、気づけば、自己否定や自分責めにエネルギーを使うことがなくなっていました。また、パニック障害の症状である予期不安や乗り物への恐怖、広場恐怖に苦しめられることもなくなっていきました。
さらに、感情や感覚、思いと向き合えば向き合うほど、認知が自然と変化していきますので、いかに私という存在が、感情―感覚―思いとの連動であり、かつ、その集積で成り立っているのかということや、私の世界観というものはそれらを通して、作られているのだということに改めて気づかされていきました。
つまり、「今自分が見ている世界は、自分の感情―感覚―思いが投影されたものなのだ」という私たちの心の作用について、実感を伴って理解が進んでいきました。それは例えば、自分の中にさびしさがあれば、道端の花が一人ぼっちで咲いているように見える、といった風に、全ては自分の心の投影であって、そこには事実はない、という理解でもありました。
向き合えば向き合うほどわかったこと~変化するものと変化しないもの「本当の自分」~
また、一方で、「感情や感覚、思いというのは、解放されるのだな」という経験をすればするほど、それらの「変化する」という性質がわかってもきます。つまり、変化するものである以上、それらに実体性というものがないのだ、ということも実感していくことになりました。
そして、こうした、【私たちの存在自体は、感情や感覚、思いとの連動で動き、それらの集積で成り立っている】ということと、【これらの感情や感覚、思いに実体性がない】ということから実感したことは、私たちの存在自体が、全く実体性がないものなのだということでした。このことが実感を伴って理解できていったのです。
そして、本当の自分(真の自己)とは、これらの感情や感覚、思いとは全く関係がないのだという理解も並行して立ち上がってきたのです。
これは例えば、ヨガ哲学の中で、
「私たちが普段『自分』と思っているのは一体何なのか? 肉体、呼吸、五感、心、経験が自分なのか?」という問いを投げかけ、この問いに対して、
「これらはすべて変わりゆく物であって、本当の自分ではなく、本当の自分は、これらの変化を観て、これらを経験する者。変化する物の中にありながら、どんなことがあっても変化しない存在が自分自身。変化する物のすべてを、本当の私だけが、変化することなく観ている」(「やさしく学ぶYOGA哲学 ヨガスートラ」向井田みお著(P61))と「本当の自分」について説いているのですが、このように言われていることが、自分の感情や感覚、思いと向き合ったり、解放されていくという経験の中で、体験と実感を伴ってわかっていったのです。
ここまで私がどのように強い自己否定やパニック障害の症状からよくなっていったかの過程についてご紹介をしてきました。
次の回では、本当の自分に気づくことがどう本質的な癒しとなるのか、その関係についてお話をしていきたいと思います。
「本質的な癒しについてー(2)本当の自分に気づくことと本質的な癒しとの関係」につづく