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7月 2023

ブログ 不安なときの対処方法 心のしくみを理解し安心をとりもどす

自然の森に学ぶ生きやすさのヒント

2023年7月30日

 

今回は、「自然の森に学ぶ生きやすさのヒント」というタイトルで書いていきたいと思います。

このテーマで書いてみたいと思った理由があります。それは、この春から「自然の森に学ぶ」ということをベースに自然農や自然栽培について学んでいるのですが、そこで教わることが、心のしくみや私たちの苦しみのしくみと全く共通する!と実感することの連続だからです。自然の森の在りようには、私たちが苦しみから解放され生きやすくなるためのヒントがいっぱい。

そんなヒントを、今回はお話ししてみたいと思います。

自然の森のしくみ

まずは、「自然の森」とは何なのでしょう? そこではどんなことが起きていているのでしょうか? それについて見ていきましょう。

「自然の森」とは

「自然の森」とは、⼈の⼿がほとんど加えられていない種々雑多の木々が生えている森林のことを言います。この自然の森には、多くの種類の生き物(植物、動物、微生物)が生きています。植物も、様々な種類があって、それぞれの背の高さや大きさなどもさまざま。太陽の光を、たくさん必要とするものも、少なくても大丈夫なものある。動物も、虫などの小動物もいれば、草食動物や肉食動物もいる。酵母、カビ、キノコに代表されるような菌類、バクテリア、アメーバーなどの微生物もいます。

 

「自然の森」にはこうした多様な生き物が生息しており、密接につながっています。

 

「自然の森」が持つ循環

図1を見てください

図1 出展:「森の食物連鎖」Acorn編集部

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森の中では、植物、動物、微生物の3つの間で、一つのサイクルが回っています。

植物を昆虫や草食動物が食べ、それらを肉食動物が食べ、その動物たちのフンや死骸、落ち葉などを微生物が分解し、その微生物が栄養素を生み出し、その栄養素を植物が吸収していく・・・という循環が起きているのです。

 

この循環の中では、植物が炭水化物(果実や葉や茎など)を生みだせば生み出すほど、それを餌とする動物たちは繁殖することができ、それによって土壌には植物の葉っぱ、倒木、動物の死骸、フンなどが与えられることになり、それらが与えられれば与えられるほど微生物が働いて、土壌に栄養素がもたらされ、植物は育ち、植物が豊かになればなるほど、さらに炭水化物の生成も行われます。

このような循環システムの中では、植物、動物、微生物がそれぞれ多様であればあるほど、循環は豊かになり、さらに安定するのです。

 

「自然の森」の循環を支える多様性

次に、図2を見てください。

図2 出展:「生態系ピラミッド」Acorn編集部

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、「生態系ピラミッド」といわれるものです。三角形の形状で示され、食われるものが食うものより多いことを表してもいます。一見、この生態系ピラミッドの最上位にいるものが一番強いものと考えがちですが、そうではありません。なぜなら、このピラミッドの中の生き物たちはこれまで見てきたように互いに密接なつながりがありますから、もし下位のものがいなくなってしまえば、たちまち上位のものも存在できなくなります。

 

この生態系ピラミッドを安定させるのに植物、動物、微生物それぞれの領域の中で多様であればあるほどよいとも言われます。これは、多様な種がいることで、もしある種類の虫や動物が病気で数が減ったとしても、別の種類の虫や動物、植物が存在することで、バランスを保ち、循環が途絶えてしまうことを防ぐことができるからです。もし単一の種しかいなかったとしたら、その種がいなくなったり、あるいは何らかの病気にかかったとしたら、それらを捕食していた上位の種にも影響が出て、最悪の場合、全て絶滅するということもあり得るでしょう。

 

さらに、多様な種がいる「自然の森」では、草が生い茂りすぎて他の植物を侵食したり、虫によって森が食べつくされてしまったり、病原菌が広がってしまったりといったようなことが起きません。(害)虫や(病原)菌が出たとしても、それらは森にとっては問題とはならず、循環を安定的に維持できるのです。それは、多様な種がいることでバランスがとれるからです。

 

このように、「自然の森」が持続可能であるのは、そこに“多様性”があるからだということがわかるかと思います。

またこのことからも、「自然の森」の中には何一つ、無駄なものはない、ということも言えるのだと思います。

 

自然の森と心のしくみ

この自然の森のありようを学んだとき、私は、私たちや心も全く同じであるなと思いました。

 

多様であるからこそ持続可能である

私が「自然の森」の話を聞いたときにまず思ったのは、多様であるからこそバランスや調整が働き、それが回復につながるのだなということです。そこから「やはり私たちの中には全てがあってよいし、不要なものがないのだな」とも思えました。

 

私たち自身は、そもそもいろいろな要素を持った存在です。いわゆるポジティブな面、ネガティブな面、受け容れることができている部分、傷ついている部分、隠しておきたいと思っている部分など様々な部分を持っているのが私たちの自然な姿なのです。

 

ところが、私たちは、不快なものや感じたくないものなどを自分の中で否定したり抑圧したりしようとします。すると、森の中で何かの植物を無くしてしまうと森の循環が崩れるように、心の中もバランスを失い、物事や相手の見え方が歪んだものになってしまうのです。

 

歪んで見えるというのは、例えば、「自分は能力がない」と自分を否定し、自分の能力を抑圧すると、周りが能力にあふれた人がいるように見えたり(それによって羨望や妬みが生じたり)、反対に自分と同じように能力がない人がいるように見えたり(それによって、嫌悪感やイライラ、怒りが生じたり)、といったことを指します(これを「投影」と言います)。

 

このように、もともと多様であるにもかかわらず、何かが抑圧されてしまうと、私たちの中でどこかに滞りとなってしまい、自然なありようから外れることになって、それが私たちの苦しみになるのだということです。ひどい時には、何らかの症状となって体に現れたり、慢性的な症状となってしまうこともあります。

 

見えないものも大事な役割を果たしている

自然の森の循環を安定的に維持することに役立っていることのひとつとして、植物が多様であることで生まれる高低差という要素があると言われています。

 

森には高木、中くらいの背の木、低木、藁、草など様々な高さの植物があるように、高さの違う(植生の多層構造)ものが共存しています。そして、背の高い木は、高い太陽のエネルギーを使い、中くらいの背の木は、中くらいの太陽光を必要とし、低い木は、少ない光でも育ちます(森の中にある植物は緑が濃いので、あまり太陽光がなくても育つようになっているそうです。)。

 

また、森は雨もうまく利用していると言われます。高低差があることで、上から順々に雨の勢いを和らげることができ、直接土に雨が降り注ぐことを防いで、土を流出させずに、地下水を作っていくことができるのだそうです。

 

このような、植物の多様性によって生まれる多層構造によって、光と水を最大限に活かすことができているという話を聞いて、これは私たちの意識の話に通じる話でもあるなと思いました。

 

多層な構造を持つ森も、空から見た時には、森の中に、中くらいの木、低い木、落ち葉があることが見えにくいのと同じで、私たちの心も階層の深い部分にあるものは見えないのです。そして、顕在意識にでてくる思いや感情ばかりに目がいき、振り回されてしまいます。

 

例えば、相手に受け入れられているかどうかが気になっている人がいたとして、その人がどうしてそうなのかの根本には、「私は空気が読むのが下手だ(だから愛されない、受け容れてもらえない)」というビリーフがあったとします。その場合、潜在意識にあるこのビリーフを捉えることができないと、顕在意識に出てくる「相手の反応が気になってしょうがない」ということだけに翻弄されてしまうことになります。そして、もともとその人がもつその人らしさを発露できないままになってしまいます。ですが、本来は、「どうして空気が読むのが下手だ」と信じてしまったのかの理由を理解することが、生きやすさにシフトさせるのです。

 

ですから、私たちも、苦しいと感じた時には、私たちの心も多層構造であって、その苦しみは普段見えていない自分の潜在意識の中にあるいろいろな気持ちやニーズから生じているということを思い出したいですね。

そうすれば、森が最大限に光と水を活かして自然なありようを持続しているように、私たちも、自分という存在を最大限に生かし、本当の意味で「生きる」ことができていきますね。ちなみに、潜在意識の中にある思いや感情に気づいていくのは難しいので、この部分をセッションではサポートしています。

 

まとめ

ここまで、自然の森の循環と多様性になぞらえながら、人の心や苦しみのしくみを見てきました。

 

私たちが苦しくなっていたり、生きづらさを感じたりしている時は、循環を妨げることが起きているサインであり、ひいては、自分の中の多様性を抑えてしまっているときと言えます。

 

ですからそんな時は、これまでお話をしてきた、

心には階層があることを思い出し、
 
何一つ不要なものはなく、何かを否定したり、排除したりしない姿勢で、
 
より心の深いところにあるものに気づいたり、受け容れていくこと 

をしていきたいですね。

 

そうすれば、そもそも私たちの中にある、有機的で調和がとれている自然の森が、さらにさらに生命力あふれたものになるでしょう。

 

 

 

 


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赦すために大切なこと

2023年7月3日

今回は、私の中で起きた「赦し」ついて、最近の体験をご紹介しながら書いてみたいと思います。

 

先日、ピアニストの友人のコンサートに行きました。

演奏とお話を交えたコンサートだったのですが、一つの作品を演奏される前に、曲紹介とともに彼女のピアノの先生の話がありました。

その先生は、生徒の間で、「レッスンに行かない時も先生が住んでいる最寄り駅の近くを通るだけで、胃が痛くなる」と言われているほど、とても厳しく、怖い方だったそうです。そして、今回演目を選ぶにあたって、久しぶりにこれから演奏する作品の譜面を取り出してきたところ、そこには、この先生の直筆のコメントなどが残っていて、当時のことを思い出した、という話でした。

 

この話を聞いて、私も自分が教わったピアノの先生のことを思い出しました。

 

私は小学校1年から高校2年までピアノを習っていました。こういうと、「相当弾けるだろう」と思われるかもしれないのですが、そんなことはなく、私にとって、ピアノといえば、「苦行」。この一言で表すことができるほど嫌な思い出しかないものなのです。

なぜなら、とにかく楽しくなかった。先生の指導方法は、暗譜をして、指の形もきっちりとして演奏しないと注意され、とにかく全部が完璧でないと絶対に次に進めない、というものでした。私は、音楽の道を目指していたわけではありませんでした。「ちょっと弾けるようになったらいいな」ぐらいで通っていた私にとっては、レッスンは苦痛でしかなく、「失敗しないように」という思いばかりが先行するので、「演奏している」という経験や演奏する楽しみを味わうことができませんでした。

結果として、曲そのものが体や肚に落ちていませんから、作品が自分のものとして(記憶としても)残りませんでした。大げさに言っているのではなく、あんなに長く続けたのに、「これだけは弾ける」というものがひとつも残らなかったのです。

 

その後、大学受験を理由に、高2でやめたのですが、それ以降、私のピアノの蓋は閉じられたままになりました。

 

さて、コンサートの話に戻ります。

彼女が、先生がいかに厳しかったかの話の最後に、「あれも(あの先生の指導も)愛だったのかなと、こうして何年も経って思えるようになった」と言いました。

 

この言葉を聞いた時に、「ああ、彼女はもう先生を赦しているんだな」と思いました。そして、ふと「私も先生のことを赦せるとしたらどうだろうか」という思いがよぎったのです。同時にそんな発想がでてきたことに少し驚きもしました。ですが、実際「赦す」ということをイメージすると、ふわっと体が軽くなる感覚がありました。(ここでも我ながらちょっとびっくりです。)

 

そして、自分の中の声を探ってみました。すると、そこにあったのは、「自分の演奏を通じて、楽器、曲、音を楽しむという経験がしたかった」といったものでした。

それまで私は、「ピアノの前に座ると体が固まるのはあの先生のせいだ」、「何も実にならなかった時間は自分の人生からなかったことにしたい」と、怒りやあきらめにも近い気持ちがあったので、当然「許せない!」という思いが出てくるものだと思っていました。ところが、よく探ってみると、単純に「やっていて楽しい!」と思える瞬間がなかったことが、悔しい、残念だ、というものだったのです。上達するとか、上手く弾けることよりも、です。

 

自分の心の声がわかって、それを言葉にすると、先生やピアノの犠牲者だと思い込んでいたところから離れることできて、「犠牲者である私」に固執して力が入っていた部分が和らぎました。そして、視野も開けた感じがして、色々と当時の実際のところが見えてもきました。

例えば、私が習っていた時代は、昭和50年代。先生は、昭和30年代、40年代を現役ばりばりで過ごした方だったと思うのですが、先生自身が演奏家を目指していない子供たちへの指導方法にあまり長けていなかっただけなのではないかとか(特に自分が自然とできることって、できない人がどんなところで困っているのかが、わからなかったりしがちです)、母は母で、自分の恩師ということもあり、なんらかの遠慮や忖度が働いていたのかもしれないとか、私も母に気をつかって、上達しない分、せめてレッスンを続けることで母の面目を保とうと、やめたいとはなかなか言い出せなかったとか。あの頃、いろいろと作用していたであろう要素に客観的に思いを巡らせることができるのです。そして、結局はだれも悪くなかったのだな、ということもわかってきます。あの時、あの時代、あの環境の中で、各々が各々の中で勝手に想像したり、解釈したりして、物事が起き、関係性が動いていただけなのだな、と。

 

こんな風に見えたときに、先生やピアノ、母を責め続けることを、もう手放しても大丈夫かもと思えたのです。さらに、「自分の演奏を通じて、楽器、曲、音を楽しむ」という経験をできなかった自分を責めていたことにも気づき、それももう手放せると感じました。あの時は楽しむことができなかったのだけれども、今は、他のことを通してその経験もできている。後悔や恨みのメガネをはずせば、逆にもっと「楽しむという経験」が経験できるな、とも思えました。だから、そんな自分も赦そうと。

そしてさらに私の体が軽くなるのを感じました。

 

 

以上が、友人の「厳しかった先生」の話をきっかけに、私の中の本当の声に気づいたことで起きた赦しのお話です。彼女が弾くショパンの調べとともに、赦しが私の中に自由という風をふわりと吹き込んでくれる体験となりました。

 

 

 

 


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