誰しも、パートナーシップについては、なんでも言えたり、自分の素を見せることができたり、不満がない、風通しのよい楽な関係というものを望んでいると思います。
ところが、そうなれずに苦しんでいる例も少なくありません。
今日取り上げるのは、パートナー(夫、妻)が家事を手伝ってくれるが、それをイヤイヤやっているのではないかと思ってしまう、そのまま素直に受けとれない、というテーマについてです。
Aさんは、結婚して7年。夫の転勤で引っ越した地方での生活にも慣れ、共働きしながら小1の男の子を育てているお母さんです。夫とは同棲を経て結婚をしたという経緯もあることから、それなりにお互いの好き嫌い、スタイルを把握しているつもり……と思っているのですが、夫がテレワークが多くなり、以前よりも家事に参加してくれるようになったのに、なぜか気が重くなってしまい、何もしてくれない方がいいとまで思ってしまいます。
例えば、夕飯を作ってくれたりするのですが、仕事と家事を両立したいAさんにとっては、とても助かるはずなのに、心のどこかで「夫は、本当はやりたくないのに無理してやっているのではないか」といつも顔色を窺ってしまうのです。特に、率先して黙って動いてくれるとなおその思いが強まって、本当は怒っているのではないか?とさえ思ってしまい、夫に対する態度もぎこちなくなってしまいます。
家事や育児に参加してくれるのだから恵まれていると思えばいいのに、そんな風に思えないことに自分でも不思議で、一方で感謝できないなんて、「なんて自分は傲慢なんだろう」と自分のことを責めてもいます。
「楽な関係」と「自分をどう見ているのか?」のこと
相手との関係性で「楽な関係」でいられることと、自分が自分をどう見ているのかは密接につながっています。
楽な関係とは、変な遠慮がなかったり、お互いに尊重しあったりができている関係ですので、それぞれの主張や意見、選択に対して自由でいることを認め合える関係であるいう言い方ができるかと思います。そして、お互いに自由を認めることができるのは、自分の中に怖れがなく、心の中の相手と自分との間が「対等な状態」にある時に、それが可能となります。
つまり、心の中で、どちらかがどちらかの上や下になっていない状態なのです。
たとえ、年齢や地位や、収入などに違いがあったとしても、存在の価値としては、上とか下とかがなく、自分が自分で立っている感覚がある状態のことを指しています。
ところが、対等とは感じられない状態、たとえば自分が相手よりも下の存在、小さな存在、と思っているときは、私たちは思いと感情や感覚を同時に経験する存在なので、怖れや不安、無力な感じをもれなく感じています。
この「自分は下だ」という思いやそれに付随する感情があると、関係性の中では次のようなふるまいや思いが現れてきます。
・「私にはできないからあなた・君が、やって」になる。
・自分で決められない。
・相手の意見や意向が気になる、またそれに従う。
・評価されたり、ほめてもらえないと不安になる。また、そのためにすごく頑張る、無理をする。
・承認が欲しくなって、相手をためしたくなる。
・自分が何ができたかよりも、相手が自分のためにどれだけやってくれたかが大事になる。また、それを自分の価値と結びつける。
・相手からの厚意、評価に自分が見合わないと思っている、好意的に受け取れない。
・相手からの厚意や評価をそもそも受けられると思っていない。
また、相手より自分が上の・大きい存在だと示したくなる形で現れることもあります。
しかしながら、自分を相手より大きく見せておかないといけないと感じる時は、実は自分のことを下と見ている時です。自分を小さな存在と信じていなければ、そもそも大きくみせる必要はないのですから。
そんなときは、次のような振る舞いや思いが現れてきます。
・相手に対して、高圧的・支配的になる。
・自分の思い通りにしようとする。
・問題が起きたときに、問題改善や解決のための実務的な方向に動くのではなく、誰のせい、何のせいといった犯人探しをして自分の不安や怖れを紛らわそうとする。
このように、「自分は下だ(上だ)」という思いとそれに付随する感情は、自分や相手を歪めて捉え、結果、「楽な関係」から遠ざけていってしまいます。
「私は下だ」を信じ込ませるもの
本来は、人は、存在の価値として、対等である、というのが、ベースです。
ですが、下記のような価値観、社会常識、刷り込み、過去のトラウマ経験などは、自身の存在価値や自分をどうみるのかに大きく影響を及ぼします。なぜなら、これらの価値観などがセルフイメージの形成や、またそのセルフイメージを持つことへの否定と関係しているからです。
・価値観(「妻(夫)とは・・・」、「40代の大人とはこうあるべき」)、
・社会常識(「人に迷惑をかけない方がよい」、「卒業したら就職するのが当たり前」)
・家庭の中で刷り込まれたもの(「働かざるもの食うべからず」、「料理は得意な方がよい」)
・過去のトラウマ経験(家庭、学校、友人関係での経験など)
これらが自分に力を与えてくれるものであれば問題はないですが、これらがないと、あるいはこれがある限り、私は一人ではやっていけない、自分の存在意義はこれらによって決まる、と思い込んでいる場合は、自分の力を弱めてしまいます。弱まった自分、自分らしさを失った状態で、夫婦関係、パートナーシップを築いていく、となった場合、そこで「対等な関係」を、とはなりにくいでしょう。
自分を相手と対等と思えなくさせているものを見つける
ここで、今回取り上げているケースに戻ってみましょう。
この方は、「お前は秀でたところがないのだから、せめて、うちのことはできるようになりなさい」とかなり厳しくしつけられて育ったそうです。この刷り込みによって、この方にとっては、「どれだけ家事が上手くできるのかどうか」というのが、自身の価値を決めることになっていました。(ちなみに、この方のセルフイメージは、「私は欠点だらけ」というものでした。)「家事がちゃんとできるかどうかが、私の欠点をどれだけカバーできるのか」ということになるので、すごく頑張ることになったりするわけです。
夫が料理をしてくれるようになることは、この方にとっては自分の欠点をカバーできる機会がなくなるということを意味しますので、「欠点だらけ」を突きつけられる感じがして、結果気が重くなる、ということが起きていたわけです。
この方にとって「私は欠点だらけ」が自分を表す真実になっていて、これが自分にとって引け目を感じる部分になります。夫婦関係の中でも、この負い目、引け目によって、自分は弱められたまま、力を奪われた状態になってしまいます。
ちなみに、自分の中に負い目、引け目があると、相手が単に手伝ってくれているだけでも、無理をして(手伝ってくれて)いるように(無理をさせているように)見えたり、自分が責められているように感じてしまうという風に作用します。この方の場合は、「料理もダメ→何をやってもダメだね」と感じてしまう。まさに、「私は下」という世界ですね。
このように、セルフイメージと「私は下だ」という自分の見え方とは関係があること、そしてそこには価値観や体験からの刷り込みが作用している、ということです。
「対等」の回復に大切なこと
さて、それではどうやって「対等だ」と思えるようにしていけばよいのでしょうか?
このブログでいつも言っていることですが、決して、「欠点がない自分になる」方向ではありません。そうではなくて、「欠点がある自分」という思い自体から解放されることが大切です。なぜなら、「欠点がある」ということ自体が、そもそも客観的事実ではなく、その人の解釈でしかないからです。
ですから、「対等」の回復には、どうしてこの思いを持つに至ったのか、どんな体験があったからなのかを理解し、またその体験の中で何を思い、感じていたのか、に気づいていくということです。
例えばこの方の場合、親に厳しく言われていた時に色々感じていたこと、したかったのにできなかったこと、言いたかったのに言えなかったことなどがあるはずです。それらに自ら耳を傾け、共感し、未解消の感情を解放していってあげることで、「欠点ばかりの私」という思いこみが解体され、この方本来がもつ“らしさ”、力、輝きが自ずと立ち現れてきます。
怖れや不安がない、ありのままの自分から見える世界は、「対等な世界」になってきます。
そうすると、家事を手伝ってくれる夫の厚意を素直に受けとれるようになり、感謝の気持ちも自然と湧いてくるでしょう。また、これまでは自分の欠点をカバーするための義務のようであった料理も、純粋に好きだと思えるようになるかもしれません。
二人の関係は愛をベースに、尊重や思いやり、信頼が循環しているものとなるでしょう。